キィキィと、椅子が鳴る。 俺は教員室にある自分の席に、椅子を落ち着かせた。 長い間座り続けた椅子は、俺の体にフィットしていて居心地は良かったもの の、胸の中に凝り固まった黒い渦は相変わらず残留していて、決して清々しい 気分とは言えなかった。 幸いにも次の授業にはまだ十分程ある。 移動時間を考えても、余裕がある。 その間に煙草でも吸いに行こうか。 よし、そうしよう。 他のことでもしないと、気が紛れない。 立ち上がろうとしたそんな俺に、声をかけてきたのは見慣れた男だった。 「宮城先生、また喫煙ルームですか?」 宮城の隣の席、白衣を着た男が穏やかな笑みを浮かべていた。 持参していた紙袋から弁当と水筒を取り出すと、それをさり気なく机へと置く。 白衣に紙袋といういかにも怪しげな組み合わせにも今ではすっかり慣れ、 宮城は彼と挨拶を交わした。 その弁当は、彼の愛する恋人のために作ってきたものに違いない。 紙袋の中にはきっと、彼自身用の弁当が入っているのだろう。 上條もマメな恋人を持ったものである。 「これから行こうかと思ってた」 「そうですか・・・。 でも最近、また煙草の本数が増えてるんじゃないか?って、ヒロさん心配してました」 白衣のよく似合う、黒髪のこの好青年は草間野分。 彼は教師といば教師だが、保健医だ。 「そう言えば先日頼んでいた書類印、押してもらえましたか?」 「あ、悪いまだだ。後で持っていく」 「助かります、お願いしますね」 「そっちは今日も上條に差し入れか?」 「はい」 そう言えば彼も自分と同じ寮暮らし。 キッチンは上條の家のを使っているのだろうか。 「はい。ヒロさん、今日早朝出勤で渡しそびれ」 「野分っ そんな話、他人に簡単にするものじゃない!」 野分と呼んだのは、草間が唯一「ヒロさん」と呼ぶ人物。 「おぉ上條」 ずり下がった眼鏡を上げながらこちらを睨むは、 自分と同じく三年生の担当教員、 上條弘樹だった。 「おぉ上條じゃないですよ! 今までどこほっつき歩いていたんですか!? 学年会議があるから、ホームルーム後、会議室来てくださいって俺言いましたよね?!」 「あ・・・忘れた・・・」 「宮城せぇんせぇぇぇぇぇ・・・ッ」 「いやだって!それに、ほら! 学年会議って・・・どーせ再来週にある春剣祭の選考の話とかだろ? 毎年やってんだから、順序ぐらい分かるぞ」 「忘れておいて、開き直らないでください・・・ッ」 眉間の皺が、彼の怒りのボルテージを示す。 今はまだ二本だが、三本目の皺が入れば流石の俺も危険に犯される。 時計をちらりと見ると、時間も良い頃合い。 「すまんッ次は出るから!」 英語の教科書をかき集め、上條の肩を叩き「お先に!」と上條の説教から ひとり逃れるのだった。 プリントを配り、そこに書かれている英文を今日の日付と同じ番号の 生徒に読ませる。 一字一句丁寧に。 発音を間違えたら正しい発音を教えやりながら、生徒は英文を読んでいく。 俺の言うことに忠実な生徒達。 真面目な彼女達の横顔に、なんだか癒される。 そう、これが俺のやり方だ。 出だしから散々な目に合ってきたが、この調子で自分のペースを整えて いけば良いだけの話。何も難しいことではない。 英文を読む生徒の声が、静かな教室に木霊して。 窓際からは光が差し、朝の柔らかな空気が漂う。 生徒の声に耳を澄ませながら、ふと、思い出す。確かにこの生徒の声は 綺麗な声だが、今朝聞いたあの声の方をどうしても思い出してしまって。 天にまします我らの父よ 願わくは御名をあがめさせたまえ 「・・・・・・」 祈りの言葉に相応しい清廉とした声、透き通った瞳と細い指。 バカ宮城ッ!!!! 「・・・・・・っ」 あの声を荒げさせ、あの瞳を滲ませ、そしてあの指で拳を作らせたのは俺なのか。 いかんいかん。 今は授業中だぞ? 集中しろ、別に大したことじゃない。 っというか良いことじゃないか。 俺を嫌ってくれれば、円満解決。 アイツは大人しくこの学校を出て行く。 そして俺には安寧の日々が戻ってくる・・・! それで本当に、 俺の『幸せ』は戻ってくるのだろうか。 そもそも、 俺の『幸せ』って・・・・・・。 「あの・・・先生?」 「あ・・・ッ」 そう、 安寧な日々こそ、俺の幸せだった。 「ありがとう橘っ もう座っていいぞ」 何を疑う必要がある? 俺の望みは、こうやって真面目な生徒達を指導していくことだろうが。 そのためには、アイツは不安要素。 俺はそれを取り除こうとしたまでで。 「あ・・・でも先生・・・っ」 「ん、なんだ? 分からないところでもあったか? それならもう一度発音してみようか」 「いえ、あの・・・」 だったら何故、 「このプリント・・・一年生向けの、やつだと思います」 何故だ? 「・・・え・・・?」 何故アイツの泣き顔が、 頭から離れないんだ・・・っ 「・・・最悪だ・・・」 「はぁ・・・いつまで落ち込んでるんですか?」 まさか三年生用のプリントを、一年生に音読までさせた挙句、生徒に指摘されるまで 気付かないなんて・・・。 恥以外の何ものでもない。 何十年も教師をやっているが、こんな失態は三十路を過ぎた教師がやる失態にしては 幼稚過ぎる。 職員室にプリントを取りに戻った時の、あの悔しさとも怒りともつかぬ感情がぐるぐ ると回った挙句、燃え尽きて、自己嫌悪だけが冷えて残った感じだった。 「確かに。 最近先生、ぼぅ・・・としてることが多いとは思っていましたよ。 今朝だって、会議のこと忘れてるし」 「・・・・・・すまん」 「え!?・・・あ」 謝ってくるなど予想もしていなかったらしく、逆に上條の方が恐縮してしまったようだ。 「きょ、今日はやけに素直ですね」 「うー・・・」 宮城は机にめり込むのではないかと思うくらい、落ち込んでいた。 まさに『どつぼ』である。 『どつぼ』は奥深く、なかなか抜け出せる気がしない。 そんな自分を置いて、上條は席を立ち去ろうとした。 いつもなら「薄情だ!」とからかってやろうかと思ったが、そんな気力、今はどこにもなくて。 代わりにというか、珍しく、上條が宮城を励ましてきた。 「素直な宮城先生なんて、先生らしくなくて気持ち悪いです。 だから早く元気になってください」 そう言われて差し出されたのは栄養ドリンクと黄色いアヒルの絵が描かれた ヒヤロンだった。ヒヤロンの冷たくてぷにぷにとした感触たまらない。 二時間目の授業は空きなので、これで頭を冷やして頑張れという、彼なりの 励ましだった。 「・・・サンキュ」 きちんと、笑えているかは分からなかった。 だが、宮城の気持ちは伝わったらしく、上條の表情が少しだけ、柔らかくなった気がした。 「いえ。ただ、落ち込んでる先生は先生で鬱陶しいだけですから」 「はいはい」 「そ・・・それより! それお気に入りですから、汚さしたり壊したりしないでくださいね絶対!!」 「へいへい」 なんだかんだ言っていても、上條は優しい。 大人だから理由を問いただそうともせず、ただ心配だからと気遣ってくれる。 そんなさりげない温かさのことを、人は優しさと呼ぶのだろうな。 担当教員の権限により、 必要以上なスキンシップ、女子と二人きりになること禁止する。 あと、出来るだけ人のいる場所を歩くよう心掛けろ。 更衣室はなるべくひとりになってから使用するように。 お前に拒否権はない。 それに比べ、自分は優しさの欠片もない言葉だらけ。 露骨で陰険で、ずるい言い方ばかり。 俺はアイツを傷付けたいわけじゃないだろうに。 じゃなんで冷たく当たってしまうのだろう。 まるで何かを恐れているようだ・・・ 「あ」 机の上、指先に当たった書類に目が行く。 そう言えばこれを草間君に届けなきゃいけなかったんだっけ。 上條は行ってしまったし、昼休みでも良いが、特にやらなければならないこ ともないことだし、ここでぐちぐちと考えていても、無駄な時間を過ごすくら いなら・・・と。宮城はさっさと書類を保健室へ持っていくことにした。 二時間目の授業が始まったばかりということもあり、廊下には人影は全く無い。 教室を通る度に、落ち着いた教師の声だけが響くのみ。穏やかなものだ。 だが周りが静かだと、どうも自分自身の声ばかりが気になってしまう。 ―――俺はどうして、 アイツに冷たく接してしまうのか。 考えても悩んでも、答えはなかなか見つからない。 子供っぽく、ぐちぐちと悩むのは苦手だ。 それに、俺は自分の短所をよく知っているつもりだ。 良くも悪くも、一度火がついてしまえば、俺はブレーキが効き難くなる。 ―――だからこれ以上、 アイツのことを考えたくなかった。 火を つけられてしまいそうだから。 「おーい、草間」 ―――なのにアイツは、 俺のことを放っといてはくれない。 ガタン!っという何かが床に落ちる音が、 視界を遮るように引かれたカーテンベットの方から聞こえた。 何事かと目を凝らす。 そこには明らかに二つの影が重なって。 有りもしない空想が現実になっているのではという不安で、血の気を引かせた。 俺は祈るような気持ちでカーテンを引いた。 大丈夫、そこにいるのは草間と生徒の誰かだ。 いつの間にか・・・そう自分に言い聞かせている自分がいた。 「・・・・・・・・・っ」 自己暗示も虚しく、 「・・・・・・・・!」 そこにいたのは 「お前・・・なのかよッ!」 同級生の女の子を胸に抱いた、高槻少年の姿だった。 失望の瞬間、俺の中に、 これが現実なのか・・・と飽きれる自分と、 これが現実なの・・・か?とひどく傷付く自分がいたんだ。