「天にまします我らの父よ 願わくは御名をあがめさせたまえ」 その声は小鳥のさえずりに似て 「御国を来たらせたまえ 御心の天になるごとく地にもなさせたまえ 我らの日用の糧を今日も与えたまえ」 その言葉には魂が込められて 「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく 我らの罪をも赦したまえ 我らを試みにあわせず」 その美しさに、 「悪より救い出したまえ」 思わず、 「国と力と栄えとは 限りなく汝のものなればなり」 奪われて、奪われて。 瞼で消えていく最後の瞬間まで俺を独占する。 「アーメン」 主よ、 あなたは何故、 コイツを俺に、出逢わせたのですか。 「素敵なお祈りでしたわ」 そんな声に顔を上げれば、とある生徒の周りを、女生徒が囲んでいた。 どうやら、『あの転校生』は、クラスの生徒に気に入られたようだ。 転校当日も、生徒達から好感さえ感じられる視線を送られていた様子だし、 彼がこの学校に馴染むのも時間の問題だろう。 ・・・忘れていた、アイツ自身が一番の問題じゃないか。 問題も問題、大問題だ。 女子高に、女装した男が転校してくるなんて・・・。 だがきっと、誰も俺の言葉を信じないだろう。 何故ならアイツは見た目こそ完璧に、女子高生そのものだったからだ。 変声期を過ぎているはずなのに、忍の声はやけに高い。 色も白く、華奢な体で、おまけに顔も中性的。 これでは誰も彼が男だと思うまい。 それどころか、彼の整った容姿とクールな性格に、クラスの女子は皆、 惹かれているようだ。 整った容姿は生来のものだが、性格がクールなのはただ単に、女子に 自分の正体がバレぬよう、わざと彼が距離を置いているようにも見えた。 そんなこととは露とも知らず、彼女達はそんな彼にますます惹かれて いるようにも見えるわけで・・・。 まぁ俺はあくまで傍観者、不可侵を決めているので何も言うまい。 「高槻さん、よく通るお声ですね。 お祈りのお言葉も、とても胸に沁みましたわ」 「ありがとう。 初めてだったけど、そう言ってもらえて嬉しい」 「あと英語の発音も凄かったよね。 英語のリーディング、完璧だったしっ」 「高校はオーストラリアで二年くらい留学してたんだ」 「え!?そうなんだ。 あれ?・・・じゃなんでこっちにきたの? あと一年くらい、あっちで勉強してても良かったんじゃないの??」 「鞠奈さん、あまり立ち入ったことを訊いてはいけませんわ」 「でも知りたくない?」 鞠奈はクラスいちおしゃべり好きな女の子であることは、担任の宮城には既知の事実。 もしかしたら、忍が自分にとって都合の悪い発言をするかもしれない。 「好きな人を追ってきたから」のだの、 「好きな人がここにいるから転校するため」だの。 ・・・浮かぶ予想は、どれも自分に対してまずい状況を招きかねないものばかり。 俺は思わず、 「高槻!」 話の流れを止めるため、声をかけてしまった。 大きな声に、呼ばれた忍以外にも、教室中の視線が宮城の元へ集まっていった。 やっちまった・・・。 端的な考えは自分らしくないではないか。 自分にそう言い聞かせ、なんとか冷静を取り戻そうと努力するも、うまい言い訳が 見つからず、視線も定まらずに宙を彷徨う。 結局、「・・・い、以外の女子は次の体育の準備をしなさい。先生はちょっと高 槻に話があるから」と適当な言葉で誤魔化したつもりだったが。 「なんで高槻さんだけ?」 「先生、高槻さんにも、更衣室の場所教えたいのですが・・・」 「宮城先生、そんな大声で呼ばなくても。 忍ちゃん、怖がっちゃいますよ!」 疑問を持った女子に、質問攻めにされてしまう。 焦りは募り、生徒達からはいよいよ不審な眼差しで見つめられて。 「つべこべ言わず、行った行った!!」 これ以上嫌な汗をかくことも御免で。とにかく女子を移動するよう促した。 しかし、これが女同士の連帯感とでもいうのか。 「宮城先生、なんか今日変」 「う・・・っ」 鋭い指摘に、喉を突かれた気がした。 どうやら、女子は全員忍の味方らしい。 先生、何を企んでいるの・・・?という女子の視線が痛い。 どうしたものかと焦っていると、ガタンッと椅子を引く音がした。 「行けばいいんだろ?」 そう切り出す、長い髪をなびかせたグレイの瞳の美少年。 体操着の入った袋を肩に背負い、美少女と呼ぶべき相応しい生徒が 教卓の前に立つ。 グレイの瞳は、今日も真っ直ぐ俺を見つめていた。 「生徒指導室に行く?」 「お・・・おう」 小声のやり取りは一瞬で、クラスの女子にも怪しまれず済んだ。 しかし呼び出した本人より、呼び出された方に場所指定されるとは・・・。 自分が情けなくて仕方ない宮城は、これまた間抜けに、その小さな背を追う ようにして、教室を後にしたのだった。 廊下を歩く間、二人は並ぶことはなかった。 生徒の後ろ、やや斜め後ろを教師が歩いているという奇妙な図。はたから見 れば、ただ無関係に廊下を歩いているようにも見える。事情を知っているのは 自分と彼だけ。 学校という、俺の中の日常にできた、非日常の穴。 その穴を作るのはいつもコイツだ。 テロリストのように、俺の平和を爆弾を投げて穴を空けていく。 おかげで、いつその穴に落ちてしまうのかと冷や冷やする自分がいる。 俺のペースはどこへ行ってしまったのだろう。 すれ違う女生徒は皆、転校生を横目で見るというのに。 そんな視線には目もくれず、カツンカツンと堂々と歩く姿はまるで、百獣の なんとかのように誇り高い。 髪が風になびく度、男ということも忘れ綺麗だと思ってしまう。 「伸ばすのに二年掛かった」と言っていたが、彼は二年も前からこんな事を 計画していたのだろうか。 コイツの人生を変えてしまったのは、実は俺なんじゃないか? 暗い気持ちとは裏腹に、窓からは麗らかな太陽がこちらを照らしていた。 俺は【第二生徒指導室】と書かれた部屋に入ると、きちんとドアを閉めた。 話の内容が少しでも外に漏れてはならない。 「で、話ってなに?」 「・・・まぁ座れ」 広くもない部屋の真ん中に置かれた机と椅子を俺が指差す。 大人しく席に着く忍とは対照に、俺は鍵を掛けたドアに寄り掛かる。 電気を点け、カーテンがひかれて多少明るくなっているが、部屋はどこか薄暗い。 「お前は男だ」 「そうだな」 薄い影がベールのように俺と忍の顔を包む。 冷たい色をしたタイルの上、二人の影は深い色をしていた。 相手の手の内を読もうと必死なのに、そんなことを表には見せず冷静でいよう とする俺がいた。 俺が椅子に座らなかったのはわざと。 「だがここは女子高、しかも寮付き。未成年の女子だらけ」 同じ位の視線にならないように、 威圧感を、少しでも彼に与えたかった。 「そうだな」 ゆっくりと、静かに、ひとつひとつの言葉に重みを持たせる。 「危険も多い。 もちろんお前のじゃない、『彼女達』のだ」 教師の目が行き届くところなど、たかが知れている。 男の教員である自分が監視できない所も少なく、その分だけ、彼女達には 危険な場所があるということだ。 どんなに見た目を取り繕うと、コイツは正真正銘十七歳の男子。 つまり、いつ、『何』が起こってもおかしくないということ。 「俺、があの子達を傷付けるような真似をするとでも?」 「直接手を下さぬまでも、間接的にってこともありえる」 この言葉に彼の中の怒りが頂点を越したらしく、声を荒げ、いきり立つ。 「なんだよ間接的って・・・ッ つまり盗撮とか覗きを俺がするてことかよ!?」 馬鹿馬鹿しい! 忍はそう言って机を叩くと、袋をまた背に背負い席を立った。 部屋を出て行くつもりなのだろうが、出るには宮城を退かさなければならない。 だが宮城に退く気はなかった。 硬い壁のように腕を組み見下ろすと、彼のグレイの目はどこか悲しみで満ちていた。 「俺は・・・俺は絶対そんなことしないッ だから退けよ!」 「まだ話は終わってねぇんだよ、ガキがッ」 ここで退いてなるものか。 コイツには一度、立場というものを知らしめておかなければいけない。 そうしなければこの先ずっと、この力関係は変わらない。 これ以上、 コイツに俺のペースを乱されてなるものか。 とにかく俺は、必死だった。 「高槻忍。 担当教員の権限により、 必要以上なスキンシップ、女子と二人きりになること禁止する。 あと、出来るだけ人のいる場所を歩くよう心掛けろ。 更衣室はなるべくひとりになってから使用するように」 「はァ!?んなことフツーに考えて出来るわけな」 「お前に拒否権はない。 俺の言葉に従うか、この学院を出て行くか、二つに一つ。 さぁどうする?」 さぁ不自由な選択だ。 お前はどちらを選ぶ? 「アンタの言ってることは無茶苦茶だ!」 「無茶苦茶だと? そもそも、お前の存在自体が無茶苦茶だろうが」 「!?」 あぁ無茶苦茶だよ。 そんなこと百も承知さ。 なんたって、こっちはそれが目的だからな。 「十七歳以上も年上の男を追いかけて、女装して、今ここにいるお前は何者なんだ?」 「だって!・・・それはっ」 「あぁそうそう。 もしお前が俺の言葉を従っていても、 お前が俺の言うことを守れなかったと判断した時点で、お前のことをご両親に知らせる。 そして無理矢理にでも、連れ帰ってもらうからな」 「な・・・っ?!」 昔々、かぐや姫が大勢の求婚相手を無碍にはしなかった。 どの方々も自分には素敵な殿方と謙遜までして。 だがその代わり、結婚の条件として、無理難題を求婚者達に提示した。 何故だと思う? 「俺は・・・間違ったことを言ってるかな?」 難題にぶち当たり敗れていく相手に、 己の非力ゆえに姫を手に入れられなかったと確信させた上で、 姫自身は自分を正当化させたんだよッ 「高槻君」 俺の、勝ちだ。 「分かったらさっさとオーストラリアへ帰れ。 それがお前にとっても良い選択だ、問題解決。 お前モテるだろうから、好きなだけナンパでもして恋人作れッ わざわざオッサンを追う必要もなくなるぞ」 俺は勝利を確信した瞬間だった。 「・・・・・・だよッ」 だが 「あ?」 「なんで・・・だよ!!!」 俺は根本的に、 何かを履き違えていたらしい。 「なんで!! なんでこんな所までアンタを追ってきてっ 女の子をどうにかしたいって・・・思うんだよ・・・!」 それが彼からの、初めての敵意。 鋭い視線に、思わず圧倒され。 何故ここまで彼が怒るのか分からず、やや押され気味だったが、間違ったことは 言っていないと己を奮い立たせた。 もし何か問題が発生した際、人生を狂わされてしまうのは彼自身だ。 宮城は言葉はどうあれ、乱暴だったが彼を更正させようとしたまで。 彼も男、本能には勝てない時があるのではないだろうか、と。 そう、そもそも男が男が好きという時点で、 己の本能を無視していると言えるのではないだろうか? そんな宮城の気遣いも彼には届かず、アイロンをかけたばかりのシャツの胸倉を 容赦なく白い指が掴み上げる。 小波のように様々な線の皺が、細い指によってできていき。引き寄せられて、 顔と顔、瞳と瞳の距離が短くなる。 そこで初めて気付かされた、彼の目尻に朝露のような小さな雫があることを。 瞳の水面も、心なしか揺れていて。 グレイの湖の中に、自分がどんどん吸い込まれていくのが分かった。 理由は分からない。 けれど、これだけは分かった気がした。 「俺だって・・・なんで自分が男なんだとか、歳とか、気にしたさ! 悩んだよ!でもそんなの悩んだってしょうがなくて・・・!! だから・・・アンタに会えば・・・何か、何かが分かる気がして。 何かが変わる気がしたんだよ!」 俺は、彼を傷付けた。 「会いたかったッ ずっと、ずっと・・・アンタだけに・・・!」 言葉をかけようとした瞬間、眼前のグレイの瞳がより近くに寄ってきて。 ぼやけていく顔に、過ぎる予感。 一段高く鳴った鼓動は警告音。 それはキスの予感だった。 俺は目を瞑ってはいけないと悟った。 最後の一瞬まで彼を見つめることが、彼を泣かせた自分の義務だと感じたから。 唇と唇、息がかかるほどの至近距離だったけれど。 「バカ宮城ッ!!!!」 忍はそれだけを叫ぶと、俺の目の前から消えた。 「・・・・・・・・・・・・」 彼が鍵をあけ、部屋を出て行くのも気付けぬほど、唖然としていた。 腰から力が抜けていく。 床の固さも忘れ、俺はその場に座り込んでしまった。 咄嗟とはいえ、拒否もできたはずなのに。 心のどこかで彼を受け入れていた自分にもびっくりして、頭がぐるぐると、混乱した。 「んだよ・・・ッ」 意識に残ったのは、 乱暴な捨て台詞と、無駄に高鳴る鼓動の音だけ。