腸が煮えくり返りそうな自分と、 落胆で崩れ落ちそうな自分。 俺はどちらの感情も捨てきることが出来ず、立ち尽くしていた。 怒ることも、落ち込むこともないはずなのに。 そして今大切なのは、高槻忍は俺との約束を破ったという事実。 目の前で起こっていることは予想の範囲内、 だからあんな無茶苦茶な条件をつきつけたのだろう? これで心置きなく、コイツを追い出せるじゃないか。 この学校からも、 俺の中からも 最高の気分じゃないか。 観念したのか、生徒をベットの上に座らせると、忍は開き直った態度でこう切り出した。 「気分は・・・どうだよっ」 気分だって? 最高に決まっている。 「約束、忘れたわけじゃないよな?」 「・・・ッ」 忍は俺の言葉を否定もせず肯定もせず、俺の肩を突き飛ばすと、長い髪が尾のように 翻して出て行った。 すれ違って見えたのは怒りで赤くなった目元だけ。 あの真っ直ぐで綺麗なグレイの目までは、見えなかった。 最後にあの目を見れなかったのだとと思うと、少し・・・残念だった。 胸の奥、 まるで針に刺されたように ちくり と痛んだけれど、気付かぬふりをした。 その痛みの理由を、俺は知りたくなったから。 だから気付かぬふりをした。 これで、良かったんだ。 いつの間にか、そう自分に言い聞かせている自分がいた。 「あの・・・先生?」 現状を把握出来ていない俺のクラスの生徒は、恐る恐るといった感じで俺に訊ねてくる。 彼女に乱暴された様子はない。 どうやら、彼女自身、自分が危険な状況であったことにすら気付いていないようだ。 何かされる前に彼女を救えたことが、唯一の救いか。 だが念のため、俺は彼女に「何もされなかったか?」と訊ねると、彼女はきょとんと した顔で、逆に俺に訊き返してきた。 「確かにシュートしたのは高槻さんでしたが、アレは事故ですよ?」 シュート? 事故? 「は、はい。 えっと・・・私達バスケの練習をしていて・・・ゴールにシュートしたボールが 弾けて、下にいた私の目に当たってしまって・・・先程まで寝込んでいたみたいです」 彼女が最後に見たのは高槻忍がシュートをする少し手前。 ボールを渡された忍が、地を蹴り高く飛び上がった瞬間だったそうだ。 ボールばかりを追う人々の中、彼女だけは忍を見ていたそうだ。 ゴールを見つめる忍の瞳が、少し悲しげに歪んで。 手から離れていったボールはわずかに輪の中心には届かず、話自体に弾けて飛んだらしい。 「なんかその目がやけに意味深で・・・悩みでもあるのかなって考えていたんです。 それでぼぅとしちゃったんですね。ボールが近付いてきたと思ったら、急に目元が 重くて痛くて・・・。それでそのまま倒れて、気付いたら保健室のベットの上でした」 馬鹿ですよね私、と小さく女生徒は笑った。 「高槻さん、あんまり自分のこと、話さない人だから。 転校してきて、不安も多いと思うのにそんなところも見せず、明るくて。 きっと・・・優しい人なんだと思います」 優しい。 彼女に言われるまで、アイツとその言葉は絶対結び付けられなかった。 俺はアイツの、何を見てきたのだろう。 「彼女、自分に責任があると思っているんじゃないかしら? だってずっと付き添っていてくれたみたいだし」 あぁ、きっとそうに違いない。 アイツはアイツなりに考えて、君の事を看病し・・・え? はい? ずっと・・・看・・・病? 「ちょっと待て! じゃなんで抱き合ってたんだ?!」 宮城の言葉を心外とでも言いたげに、生徒の日向が「抱き合うって」と飽きれる。 「もう平気だから教室に行きましょうって言って立ち上がったら、 急に立眩みがして、倒れそうになったのを助けてもらっただけですよ?」 「・・・そん・・・な」 なんてことだ。 「日向、お前はまだ寝てろ。 先生達には俺が言っておくから」 ありがとうございます、彼女は多分そう言ったに違いない だが正しくは分からなかった。 何故なら俺は、最後まで彼女の言葉を聞くことなく、保健室を飛び出して行ったのだから。 忍・・・! 廊下は静か。 誰もいない廊下は不気味で、どこまでも続いていうのでは?と疑ってしまうほど。 もどかしい気持ちを抱えた俺は、たったひとつの人影を探し続けた。 最高の気分だって? 冗談じゃないッ 最低最悪の気分だよッ 生徒を脅して、疑って、傷付けて。 俺は最低の人間だッ 「どこにいんだよあの馬鹿!」 アンタを追って、ここまできたっ そうだ。 アイツはプライドの高い奴だ。 そんな奴が女装してまで女子高に来るなんて、相当の覚悟がいるんじゃないのか。 俺は絶対そんなことしないッ 屈辱だっただろう。 追いかけてきてしまった人にそんなことを言われるのだから。 アイツが怒るのも無理はない。 バカ宮城ッ!!!! 泣いていた。 そうだ、アイツは確かに泣いていた。 「馬鹿・・・か」 そんなこと、ここ何十年言われたことがない。 理沙子と・・・婚約者と別れる時だって、そんなこと一言も言ってくれなかった。 酷い男と、罵られてもいいと思ったのに。 彼女は彼女なりに、浮気をしてでも俺に気付いて欲しかったのかもしれない。 本当は、誰にでも無関心でいようとする俺を、彼女は見抜いていたのだろう。 「・・・・・・くそッ」 とにかく早く、アイツに会わなければ。 気持ちばかりが焦るのを落ち着かせ、見落としがないよう、目を凝らして辺りを見回す。 一階には一年生の教室と保健室と下駄箱があるぐらい。下駄箱へ向かった様子はないので、 二階へ駆け上がる。 歳のせいか、足が思うように上がらない。 いつもの階段が、今日は遙か彼方まで続くように思えた。息を切らし、一気に上りきる。 人影はない。 過呼吸にならぬよう、口に手を当て、息を吐く。 二階には二年生の教室と生徒指導室と・・・。 ピタリと、足が止まった。 止まった場所は【第二生徒指導室】と書かれたドアの前。 先程、きっちりと閉めたはずのドアの間に、何かが挟まっているのが微かに見えた。 それは藍色の生地の裾で、端にはファスナーがついていた。 記憶違いでなければこれは・・・ 「忍・・・?」 ドア越しの向こう側にいるであろう、ひとの名を呼ぶ。 「いるんだろ?」 返事はない。 だが俺には分かる、このドアの向こう、アイツがいると。 「・・・ジャージ、見えてんぞっ」 藍色の生地でファスナー付きの服といえば、学校指定のジャージだ。 普段、生徒が何色のジャージを着ているかなど覚えていなかったが、先程ま で忍が身に着けていたものなので、すぐに分かったのだ。 この向こうに、忍がいる。 「・・・・・・・・・・」 「・・・・・・・・・・」 「おい、しの」 ジャージは引き抜かれ、ピシャン!と完全に扉は閉じられ、 「話なんか、したくない」 鍵が掛かる音までした。 見えない心にまで、施錠をかけられた気分だった。 冗談じゃない・・・!! 「なんだなんだ?! 人がせっかくここまで追っかけてきたのによッ」 「?! それはこっちのセリフだ! 俺が追いかけると逃げるくせに・・・!」 すぐ側にいるのか。忍の声を近くで感じた。 けれど二人間にはしっかりと、厚い壁があった。 「アンタ・・・わけ分かんね・・・ッ」 確かにそうだな。 お前の言う通り、俺も・・・そう思うよ。 「・・・分かった。 でもお願いだ。 ただ聞いてくれるだけで良い」 今更、何を言っているんだろうな。 自分でも分からない。 今頃になって話を聞いて欲しいなど、ずるいって分かってる。 でも今言わなければ、 きっと取り返しのつかないことになる。 俺はもう 後悔はしたくなかった。 「日向から事情は全部聞いた。 お前に無理なことばっか言ったし、俺の誤解で、お前を傷つけた。 今回のことは・・・全部俺が悪い」 俺は誠心誠意を込め、扉の前で頭を下げた。 「すまん・・・っ」 見えなくとも、心の底から謝れば、気持ちは扉を越えて伝わるはず。 事情はどうあれ、俺はお前を傷つけたんだな。 本当は・・・怖かったんだ。 気付けばいつも、コイツのことばかり考えていて。 そのうち、コイツの気持ちにほだされてしまう日がきてしまうんじゃないかって。 それだけは絶対阻止しなければならない・・・から。 この心にはもう、 誰も居れたくなかったから・・・。 ガチャリッと施錠の解けた音が、宮城にはやけに大きな音に聞こえて。 「怒鳴られるより、」 ゆっくりと扉が開いていく。 開かれていくごとに見えてくる人影。 藍色のジャージを着た人影は、肩を丸め、悲しげに俯いていた。 「誤解されるより、」 俺は指を忍の顎下にいれ、そっと上を向かせた。 今朝の時よりも大粒の涙が、その瞳には満ちていて。 涙を見られることを嫌い、手で払われても、宮城はその顔を見ていたいと思った。 「アンタを好きだっていう気持ちを・・・ッ」 腕で顔をめちゃくちゃに庇いながら、 「アンタに・・・! アンタに信じてもらえなったことが、一番、嫌なんだよ・・・!」 拭われることものない涙が次から次へと流れていった。 「アンタが・・・好きなんだよ!!!」 最後の力を振り絞り、それだけを宮城に伝えると、忍は自らの腕の中に顔を隠し、泣き始めた。 その泣き方は恥じらいもなく、ただ豪快で迫力があった。 俺は中に入ると、やっと開いたドアを閉め、彼を抱くと、奥の方へ彼を引き込んだ。 そして彼の存在すら包み込むように、思う存分泣かせてやった。 腕の中にある体は、小さく震えていて。 きっと涙が止まらないのだろう、腕は解かれることなく涙を吸っていく。 「ごめん、ごめんな忍。 悪かった・・・」 俺の声に応えるように、嗚咽が一際大きくなった。 「・・・ぅッうう・・・ッぁ・・・んぁっ」 俺は不自然にならないよう、そっと優しく背中をさすった。 これで期待などされては困るが、今は泣かせてやろう。 寄せた頬は柔らかく、甘くて優しい花の香りがして。 少しだけ見えたグレイの瞳は、宝石のようにキラキラと輝いて。 やはりとても綺麗だった・・・。 忍はその後、泣き過ぎのあまり頭痛がすると保健室に戻っていった。 そして放課後、二人が落ち合ったのはオレンジ色に染まった【第二生徒指導室】。 先に到着した俺は、窓を開け、夕陽を見ながら一服した。 ついこの間までは桜の季節だった。 なのに今では、しっとりと露を含んだ風が頬を撫でる。 古き季節の別れ、新しい季節の訪れか。 秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる 不変のものなど、この世にあらず。 移り変わる季節の中で、人は桜よりも儚い生き物だ。 桜が散っているのに、人である自分が変わらないでいることは道理に反している。 俺も・・・変わっていくべきなのだろうか。 そんなことを考えていると、扉が開いた。 立っていたのはもちろん俺の待ち人。 俺は煙草の火を消し、空の缶コーヒーの中に吸殻を入れた。 「はっきり言っておく。 俺はお前の気持ちには応えられないし、応える気もない。 だが、もしもお前が純粋な気持ちで、俺の授業を受けたいというならば前向きに 考えても良い」 「前向きって・・・もしかして俺を好きになることを?」 的外れの解釈に、思わず力が抜ける。 「違う違う違う!全然違う!!」 「・・・分かったから!怒鳴るな五月蝿いッ」 「だから! ・・・このままご両親へ報告しないでいることを、だ。 俺の授業を真面目に受けたいって気持ちが少しでもあるなら、ここにいて 良いってことだよ。 ただし、マジで俺の生徒に手ぇ出したらそん時は」 「しないから。俺、アンタ以外に興味ねぇーし」 「・・・その発言もどうかと思うぞ」 嬉しい言葉なのに素直に喜べないのは、コイツが男だからだろうか。 それとも、コイツが高槻忍だからだろうか。どっちにしても、俺はあまり 嬉しくないわけだが。 「だって本当のことだし・・・」 泣き過ぎて真っ赤になっていた頬も、今は淡い色になっていて然程目立たない。 「真っ赤な目して、生徒達に不審がられなかったか?」と訊いてみたかったが、 忍の反応が怖いので大人しく口を紡ぐ。 制服姿に戻った忍は、ばつが悪そうな顔をしていて、宮城の顔を見ようともしない。 いつもなら、穴が開くのではないかと思うぐらい、あの大きな瞳で見つめて。 こちらの方がたじたじにするというのに。 俺の前で泣いてしまったことが、男としてのプライドが許さないのだろう。 なんだコイツ、 結構可愛いところもあるんじゃないか・・・。 俺は思い切って、奴の前へ手を差し伸べた。 「・・・なにこの手」 「握手は世界共通だろ?」 忍は眼前に差し出された俺の、手と顔を見比べていた。 「高槻忍、私の授業を受けたいというその学びの心、歓迎しよう」 しぶしぶといった様子で、忍の手が重なる。 冷たい色をしているが、熱いくらい温かい手だった。 まだ拗ねているのか、眼前の人はこちらを見ようとしない。 「ようこそ、聖女学院へ」 「・・・どーも」 穏やかな安寧の日々は過ぎ去ってしまった。 けれど、純粋で真っ直ぐなテロリストの登場も悪くはない。 ようは、自分さえしっかりしていれば良いのだ。 「宜しくな、忍」 俺はこの時、 なんて間抜けな笑みを浮かべているのだろうか。 高槻忍の言う、大きな運命とやらに既に巻き込まれていることなど、 この時の俺は何も知らずに、ただ笑っていたのだった。