長い髪を翻し、長い睫のグレイの瞳と視線が出会う。 「宮城先生、御機嫌よう」 そう応えたのは彼の隣にいた女生徒だった。 この学校では一般的な挨拶に、反射的に「御機嫌よう」と応える。 俺は何気なく視線を外した直後、すれ違った彼は傷付いたように眉を顰めると、 か細い声で「御機嫌よう」と言った。 胸の奥が、ちくりと痛んだのは自分勝手な痛み。 なんで俺が罪悪感を感じなきゃいけないんだ・・・ッ ここは女学院、アイツは女装した男。 俺は教壇に立つ教師、アイツは生徒。 歳の差は17歳以上、そして男同士。 どう考えても、 二人が付き合う未来など、想像も出来ないというのに。 アンタを追って、ここまできたっ だから何故、 俺が悩まなくちゃならんのだ・・・ッ!! 芯のある真っ直ぐな想いが、 彼に再会してからずっと、突き刺さってて外れないまま・・・。 あれは数日前のこと。 ケータイが鳴り、表示されたのは未登録の電話番号。 夜も遅く、こんな時間に誰かと目を細めた。 出てみても、声の主が分からず、思わず自分から「はい、宮城です」と名乗ると 「・・・知ってる」という、可愛げのない声が聞こえた。 じゃ名乗れよ。無言になんな。 「すみません、お名前を伺っても?」 教師である自分は、ケータイの電話番号まで生徒には教えたりしない。生徒が電 話で俺に連絡する際は、独身寮にかけるよう言っている。だがこの職業でいる限り、 いつどこでこの番号が生徒達に漏れるとも分からない。 だから初め、最悪の場合は女学院の生徒の悪戯かとも考えた。 だがそれは違った。 『高槻・・・忍』 その苗字は、宮城にとって遠い昔の名。 宮城には高槻理沙子という婚約者がいた。 聡明で美しく、料理上手で素敵な女性だった。 彼女とは、宮城の恩師であり彼女の父である高槻氏の紹介で知り合った。 見合いよりは堅くはなかったが、彼への恩義や彼女の美しさに後押しされ、宮城は 彼女と付き合い始めた。 彼女もまた、宮城を好いていたのだ。 もしかしたら、宮城が思っていた以上に、彼を好きだったかもしれない。 やがて二人は婚約し、互いの家族のみで食事会が行われた。 その時だった、 『彼』と初めて出会ったのは。 食事会が行われるホテルへ向かっている時のこと、宮城は不良に囲まれている少年を助けた。 それが忍だったのだ。 彼とはその食事会の席で出会った時のみ。 その後、オーストラリアへ留学したと聞いたのだが・・・はて。 自分になんの用であろう。 まったく予想もつかず、相手の様子を窺うことしか出来ない。 しばらく沈黙が続いた後、静かな声で「もしもし」と言われた。 『明日、暇?』 「え、あ・・・あぁ」 『だったら明日、会って欲しい』 唐突な要望に、まさか理沙子や学部長に何かあったのかと混乱したが、乱れた様 子もない忍の声に、宮城は不安より不思議な気持ちで彼の申し出を受けた。 そして迎えた翌日。 俺は元婚約者の弟との奇妙な再会を果たすべく、忍に言われた喫茶店に入ったの だが・・・それらしい少年は見当たらない。 まだ来ていないのだろうか。 念のため、店の人に訊ねてみると、「お待ちしておりました」と笑顔になった。 どうやら、三十分前には既に彼は到着していたらしい。宮城と名乗る客がいたら通 して欲しいと店の者は頼まれていたようだ。 約束の時間の三十分前にきていたとは・・・まったくもって、彼は見た目の割り に律儀な少年だったようだ。 そんな長い間待っていたのかと、定時に来たはずの胸に少し罪悪感が残る。 だがもう一度店内を見回すも、それらしい人影は見当たらない。 いるのは、いかにも打ち合わせで入ったといった感じのスーツ姿のサラリーマン達と。 読書をしながたレモンティーを飲む大学生。 コーヒーには目もくれず、ひたすらパソコンを叩く神経質そうな男。 そして・・・ ガラス製の壁側のテーブルに佇む髪の長い美少女。 ガラスでできた壁の向こうでは、春の優しい風が並木の葉を揺らす。その風に当てられ たように、その美しい糸の髪がなびいた気がした。 ガラスに映る純度の高いグレイの瞳は、どこか海外の宝石のごとくきらきらとしていて。 憂いを帯びたその表情は、恋人を待っているのか、幼顔に似合わず、とても艶やかだ。 高校生か・・・? 美人な子だな。 外国人のような整った顔に見とれていると、「ご案内します」と店員が先陣を切る。 目的を見失っていた宮城は我に返り、恥ずかしさを押し込め、店員について行く。 店員が向かったのは店内の中では一番明るい、ガラス製の壁側の席。 おいおい、そこは彼女の席だろう。 正確には、彼女の連れの席。俺の案内されるべき席じゃないっ 人違いを知らせるために、店員に近付く宮城の耳にある声が届く。 「高槻様。 お連れ様が到着なさいましたのでご案内いたしました」 え・・・高槻・・・? 「では。私はこれで・・・」 え?え?え? 思考が追いつくことなく、店員は宮城を置きざりにしていく。 「ありがとうございます」 高く凛とした声は、見た目によく合っており、彼女の美しさを引き立てた・・・だが。 「あの、高槻しの・・・ぶ、君?」 「・・・とりあえず座ったら?」 混乱で言葉がうまく発することが出来ない。 またそんな宮城を見ても動じることなく、忍は紅茶を飲んだ。 その冷静さに、異常に腹が立った。 人間、なぜしようもないことだったり、利益もないことに腹を立ててしまうのか。 知らん、腹が立つもんは腹が立つのだ・・・っ まるで、女の子だと思って可愛いとか褒めていた後輩が、実は男だったとバラされた気分だ。 それはどう考えても、良い気分ではないだろう!? 俺はまず、落ち着くためにコーヒーを頼んだ。 飛び切り濃くて苦いのを頼んだ。 「・・・忍君・・・さ」 「『君』はいらない。呼び捨てでいい」 呼び方なんてどうでも良いッ 落ち着け俺、そうだ、俺の勘違いってこともあるだろ? うん、落ち着け俺、落ち着くんだ。 こんなことで我を忘れては、女子高の教師なんて務まらんだろうが。 咳払いをし、意を決する。 「俺の記憶違いだったら酷い話だ! だから間違っていたら先に謝る、すまん。 その上で言うっ」 ちゃんと思い出せ、今ならまだ間に合う。 高槻氏がこの子を紹介する時、なんと言っていたか・・・。 ・・・何度思い出しても、高槻氏はこう言っていた。 紹介するよ、忍だ。 この子は理沙子の・・・ 「君、『弟君』・・・だったよな?」 母国でまさかこんな間抜けな質問をする日がこようとは夢にも思わなかった。 生まれて初めての質問に、妙な緊張感が漂う。 宮城の記憶が正しければ、忍は学ランを着ていた。そして高槻氏も理沙子も、 「弟」と、はっきり言っていたはず。 だがしかし、眼前にいるのはどこかどう見ても少女という名詞が相応しい。 中性な顔付きで間違えたとかそんな問題ではない。 背を包むほどの細い髪はもちろん、胸元にフリルのついた白いワンピースに 黒のタイツを履いていて・・・これはどこからどう見ても性別を女性ではなく、 男性と認識した日には、世の女性の大半が男性になってしまうだろう。 「男だよ」 答えはあっさり。だが宮城の心は重くなるばかり。 だが今の格好は、彼の発言とは全く正反対の要素を含んでいる。 「『これ』には・・・深いワケがあるんだ」 男が女装する時、深い理由が存在するのだろうか。 女装をしたいと思ったことはないので、その理由は想像もつかなかった。 いやそもそも思いつくわけがないのだから、ここは黙って彼の言葉を聞くべきだ。 「実は今度、日本の高校に転校するんだ」 「その格好でか?!」 「・・・この格好じゃなきゃ、駄目なんだ」 「それで・・・お前はわざわざそんな格好をして転校する高校は、どこなんだ?」 深刻そうな彼の表情から、自分を驚かすために手の込んだ悪戯を仕掛けてい るわけでもなさそうだ。 宮城は真剣に、少年の言葉に耳を傾けていた。 「聖女学院」 聞き覚えのある名前だな。 確かこの近くじゃなかった。 しかし、俺の勤めてる女学校の名前に少し似て ・・・・・・はい? 「アンタの学校に、明後日転校するから」 ちょ・・・ちょっと待て!! 「なんでまた!?」 落ち着かせてくれ、頼むから。 せめて一本吸ってから・・・!! なんとか冷静でいようとする俺の思いも虚しく、忍の爆弾のような破壊力のある発言は続く。 「アンタを追って、ここまできたっ」 更に留めの一発は、完全に俺の思考を白紙にさせた上、停止させた。 「好きなんだけど」 「はい?!」 精神安定剤の代わりの煙草も、唇で咥えられているだけだった。俺はそれを吸う ことも忘れ、静かに上がっていく紫煙が目にしみた。 「誰・・・を?」 「この状況下で、アンタ以外誰がいんだよっ」 白昼夢かと思うほど、現実離れした眼前の事実に、為す術もない。 っというか、これは悪い夢なんじゃないのか。 「からかってんのか・・・?」 疑わずにはいられない。 何故なら、俺は彼の姉との婚約を破棄した男だ。 俺を恨んで、こんな馬鹿げたことしたとしても・・・まぁ多少乱暴だが、筋は通る。 「ここまで髪伸ばすの、二年ぐらいかかったし。 オーストラリアの高校退学して帰国してまでオッサンをからかう程、俺はヒマ人じゃない」 まだからかわれていたという事実の方が、゛事実 ゛らしいというのに・・・ッ この少年はどこまでも、常識というものを飛び越えていく。 ある種長所なのかもしれないが、宮城にとっては災い以外の何物でもなかったが。 突然、女装した高校生の野郎に告白されて、しかも三日後には自分の教え子になるのだ。 ドラマでもここまでコテコテで、めちゃくちゃな脚本もなかろう。 TVで放送しようものなら、苦情が殺到するだろう。現実味がなさ過ぎる、と。 「・・・で?君は俺に何してほしいわけ?」 それが今、目の前で起こり続けてる。 先人の詩人、バイロンはなんて偉大な詩人であろう。 『真実は小説より奇なり』とは、まさにこの出来事に相応しい言葉ではないか。 「責任を取って欲しい」 どんなに小さな美花でも、それを支える真っ直ぐの茎が生えている。 芯の通った真っ直ぐな想いとでも呼ぶべきか、迷いのない言葉にも、眼差しにも、宮城は すっかり圧倒されていた。 そして宮城の心に、 遙かに現実を越えていく、乱暴だが純粋な恋心が矢のように刺さってしまったのだった。 まぁだからと言って、 彼を好きになる理由には、もちろんならなかった。 当たり前だ。 男を、しかも十何歳の年下を好きになるほど、俺はロリコンではないし。 いや、こういう場合はショタコンというのか? よく分からんが、とにかく俺は忍を好きになることはなかった。 そして、 俺の受難は更に続いてしまったんだ。 忍と別れた後、俺は混乱とどこからかくる恐怖にぐるぐると思考力が低下していた。 今思えば、あの時さっさと彼の転校中止の直訴を思いついていたらと思う。 しかし当時の俺は、とりあえず独身寮に戻っていた。 スーツを脱ぎ、風呂に入ろうとバスルームに湯を溜めていると着信音が響く。 良い予感が、当たり前のようにしなかった。 今日は厄日か・・・! タオルで手を拭き、恐る恐る通話ボタンを押した。 『もしもし、宮城君かね?』 その声は受けていた恩と同じぐらい、忘れることの出来ない男の声。 高槻忍の父、高槻氏だった。 高槻氏はM大学の学部長をしていた経験もあり、現在は海外を中心に、学会や 大学などで日本の文学の良さを伝え回っていると聞いている。 変な汗が背を流れていく。 何故俺がこんなひやひやしなければいけないのか、大いに謎である。 久しぶりの恩師との会話を、心の底から喜べない自分がいた。 「お久しぶりです、高槻さん。 お元気でしたが?」 『久しぶりだね。 ありがとう。 私も妻も元気だよ。君も元気そうで嬉しいよ。 学校はどうかね?』 「微妙な年頃の子ばかりなので戸惑うこともありますが、なんとか順調です」 そんな女学校に、今、男子が転入するかもしれない危機でもあるんです・・・とは、 口が裂けても言えなかったが。 『早速本題に入ってしまうわけだが・・・突然で、君も驚いただろう?』 「え・・・!?」 まさか彼も、自分の息子の暴走を知っているのだろうか。 それなら話は早い。 自分から切り出しにくい話だったので、これに乗らない手はない。 宮城は重荷を降ろした気分になり、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間。 『だが親としては、応援してやりたい・・・と思っている』 じょじょじょ女装行為を?! 「え?あの・・・高槻、さん・・・ッ」 『いや、 君には本当に迷惑な話だということは、分かっているつもりだ』 いやいや、女装した男子生徒と、これから一年教え子に持つ男の気持ちなど、 本人以外に分かるとは思えない気もするが。 『その・・・理沙子のことを置いておいて。 忍は君の事を・・・信頼している様子なんだ』 は・・・ははは。 今日告白されましたし? 確かに嫌われてはいないですね。 『弟子の君にこんなことを頼むのは、完全に私の力不足だ。 だが頼む、アイツのことを、見守って欲しいんだ』 「え!?」 なんでそういう話になるんですか!? 自分の息子が性別を偽ってまで、三十路の男を追うなんて、 多くのの法則を殴り倒した上飛び蹴りして、壊すようなものですよ!?! それともこれが所謂親心なのだろうか? ・・・俺には一生理解出来ん!!!!!!!!! 「高槻さんのお気持ち・・・お察しします」 理解は、出来ませんが。 「でも。 心配、ではないですか?」 俺の心労とか立場の心配を一番にして欲しい、という本音はさておき。 「高槻さん、今まだ海外なのでしょう? うちは全寮制とはいえ、息子さんおひとり、高校に行かせるのは・・・」 『あぁ宮城君・・・心配だよっ だがアイツに説得されて、必死さを目の当たりにしてな。 妻に言われたよ、もう子離れの時期なんだと』 いえ、 お宅の息子さんは男子としての道をも、離れかけていますが? 『「十代最後の時間を、祖国の日本で経験したい」・・・そう言われ時、 私は感動してしまったんだよ。 私の仕事のせいで、海外へ留学させてしまったが、アイツは私を恨むどころか、 自立して日本に帰りたいと言ったんだ・・・』 たかが十八歳の子が、両親から離れ、国も違う場所で、 ひとり生活するのはどんな思いだろうか。 『君には・・・本当に悪いと思っているよ。 でも、アイツのことを応援してはもらえないだろうか? 君のいる高校なら、安全な寮もあるし、何より君がいる。 君がいて、アイツを指導してくれるなら、私も妻も安心できる』 話を聞いていると、高槻夫婦はかなり息子を溺愛しているようだった。 それこそ、昔は片時も離れず甘やかされたのに違いない。 望むものはすべて与えられ、鉄壁の安全の中、守られて育ったのだろう。 それを捨ててまで、 この道を選んだというのか。 両親の愛も、仲の良い友人達も、整った環境も。 すべてを捨てて。 彼は俺に会いにきたとでもいうのか。 好きなんだけど。 なんて素っ気無い言い方だ。 しかし今になって、彼の決意を知り、頬が赤くなっていくのを感じた。 まずい、これはまずい・・・っ 罠のような狡賢いものではない、 もっと不器用で温かな何かに、ハマッてしまいそうな、そんな予感がした。 『宮城君、 どうか忍のことを、よろしく頼むよ』 彼の熱意に、俺は思わず頷いてしまう。 独り立ちの応援をしてやりたい、そんな気持ちになってしまった。 それを高槻氏は察したように、小さな声で良かったと笑った。 『アイツは今まで共学だったから、初めての男子校で緊張していると 思うが、応援しているぞと伝えておいてくれないか?』 男子校っという言葉に血液が頭へと上っていく。 「・・・は・・・い?」 『ではまた。 宮城君、本当にありがとう』 「え、ちょっと待っ」 ブツンという切断音の後、冷たい通話終了を伝える機会音が頭の中で 木霊していく。 ツーツーツー。 気持ちの悪い脱力感。 つまり・・・あれか? あれなのか?! あれだったりするのか?!? 高槻忍。 騙されてはいけない。 可愛い外見と裏腹に、その中身はやはり凶悪なテロリスト。 「親に嘘までついて女子高にくんじゃねぇよ!」 忌々しいっ 腹立たしいっ 何故なら少し、心動かされたから。 成長する少年を応援したい気持ちが芽生えてきたというに。 まさか俺を嘘の共犯にさせてまで、アイツはこの学校にきた。 俺の気持ちを返せテロリスト!! 腹の虫が収まらず、何度浴槽にケータイを投げつけてしまいそうになったか分からない。 宮城の雄たけびのような苦悩の声は、彼の部屋の前を偶々通りかかった、 上條と草間の耳まで届き。彼らが顔を見合わせていたことなど知る由もなかった。