「ウサギさーん。ご飯できたよー」



 フライパンを水につけながら、美咲はソファに座る秋彦に声を掛けた。
 明日は高校も休み。今日は、泊りがけで秋彦に勉強を教わりに来たわけだが・・・。
 何故か、夕食はもちろん、家の掃除や洗濯を美咲がやるはめとなった。

 
 だってウサギさん。
 夕食は出前で、掃除は業者に任せてるとか、洗濯は全部クリーニングに
出すとか言い出すし。


 貧乏な高橋美咲の頭には絶対浮かばぬ選択を、この男は平気で選ぶ。
 他人の常識や普通を否定する気はないが、ウサギさんは極端過ぎる。
 
 よって、美咲が掃除洗濯、ついでに鈴木さんのリボンを変えるのだった。

「ウサギさーん」

 手をタオルで拭いている間も、秋彦からの返答はなく。
 よく見ると、ソファから飛び出ている頭が、呼吸に合わせ揺れていた。

「って、寝てるし」

 鈴木さんの肩に腕を回し、赤ペンを持ったまま秋彦は眠っていた。


 そう言えば、昨日も寝てないとか言ってたっけ・・・。


 勉強を教える前から機嫌が悪かったが、美咲の練習問題の赤丸の
少なさに、余計機嫌を損ねていた。美咲は極力会話を避け、自分に
火の粉が振りかからないようにしていた。

 頭が悪いから家庭教師を頼んでいるわけで・・・。
 頭良かったら、誰がアンタみたいなエロホモ小説家なんかに勉強
を教わるか!!と罵倒してやりたいぐらい、いつにも増して今日の
秋彦は怖かった。 

 だがこの寝顔を見ると、そんな怒りも忘れてしまうほど、疲れ
きった寝顔をしていた。

「・・・・・・・イイ大人のくせに・・・・」


 ウサギさんは兄ちゃんに恋をしている。


 大好きな兄ちゃんの頼みである俺の面倒を、ウサギさんはしぶし
ぶ見ている。
 けれど、いくら好きな兄ちゃんのためにとはいえ、こんなにギリ
ギリの状態の時まで兄ちゃんの願いを優先しなくても、良いと思う。

 俺は、人を好きになったことがないから・・・。
 どこまでその人を優先するのかとか、すべきなのかは分からない。

 だけど、ウサギさんが辛い思いをするのは、なんとなく、違うよ
うな気がする。

 と言うかして無理欲しくない、・・・というか。
 いや、ウサギさんが好きでやってるから、俺にそれを止める権利
はないわけだが・・・・っ

 ・・・・・・・・・・・。

 馬鹿みてぇ・・・何むきになってんだろ・・・俺・・・・。 


 美咲は秋彦の部屋からブランケットを持ってきて、それをかけて
やる。
 大好きな兄を、今は少し、本当に少しだけ、憎いと思うなんて・・・。
 こんなにも、兄に尽くしている人がいるのに気付かないなんて・・・。
 ・・・・・・・せつなくて・・・・悲しい。

 美咲は知らず知らず、唇を噛んでいた。

「・・・・・・・・・・」

 指がつらないよう、赤ペンを外してやる。
 指が触れた時、秋彦が身じろぐ。
 起こしてしまったっと急いで手を引っ込めるが、秋彦は起きる
ことなく、鈴木さんのふあふあの膝に頭を下ろした。

「たか・・・ひろ・・・・・」

 途端、胸が大きく飛び上がった。
 心臓が、血の流れる音が聞こえる。
 忙しない、鼓動に美咲は戸惑った。顔を赤くした。身を縮めた。

 それはあまりにも意表過ぎて。

 疲労した映さなかった寝顔が、兄の名を呼んだ瞬間、優しくて、
温かい笑顔に変わったのだ。

 うううううウサギさんが!
 あの冷酷魔王みたいなウサギさんがぁぁぁ!!

 美咲が「心臓よ静まれ!相手は男だ!俺はホモじゃないだろ高
橋美咲の心臓!!」と心の中で呪文を唱えている時も、秋彦は幸
せそうに寝息を立てていた。

 そして興奮した感情は、驚きから怒りに変わり始めた。
 歴然とした自分と兄へ向ける表情の違いに、腹が立つ。
 月とスッポン、天然マグロと養殖マグロぐらいの差がある!と
庶民的考えで秋彦を責めるが、当の本人はすやすやと夢の中だ。

「・・・・・締まりのねぇー顔・・・・・」

 兄の前では、こんな顔もするのだろうか・・・。
 片思いの相手なのに。
 叶わぬ恋と知っても諦め切れなくて、【親友】と言う座で我慢
しなくてはいけないのに。
 それでも、夢の中の兄にでもこんな顔をしてしまうほど・・・・。


 ウサギさんの時が、止まればいいのに。


 せめて夢の中だけでも良い、この人を癒してくれる兄が傍にい
て欲しい。
 現実は冷たくて、厳しくて、それでも生きていなくちゃいけない。
 だったら夢の中で、溶けそうなくらい甘い時間に包まれるぐら
い良いではないか。
 彼の幸せなひと時が、止まればいいのに。 
 そしたらずっと、この笑顔を見ていられる。

「おやすみ・・・なさい」

 リビングの電気を消してもまだ、秋彦の寝顔を見ていたい自分
がいた。
 悪夢を見たら、すぐに起こせるように。そして、「大丈夫」と
頭を撫でて、もう一度安全な夢の世界へ返してあげたい。 
 
「ウサギさん・・・・・・」


 この人の傍にいたい。


 そう思い始めたのは、この頃だった。