ドアを開けると、図書館を彷彿させる本の匂いがした。 その中に混じった嗅ぎ慣れた煙草の臭いに、ふと宮城を思い出す。 デスクが二つと、向かい合ったソファと机でできた簡単な応接間以外 そこは本に囲まれた異質な部屋だった。 日常と切り離された空間、まるで本の森だと忍は思った。 好きなものに囲まれ、楽しげに仕事をする宮城の顔が容易に想像がつく。 二つのデスクのうち、宮城が使用している方のデスクに近づく。 机の上は、いかにも『宮城の机』と分かるほど、乱雑していた。 灰皿は吸殻でいっぱいだし、本立てを無視して積み上げられた本の 積み木は今にも崩れそうだ。マグカップには、コーヒーでできた茶 色のメモリがくっきりと残されている。 家は綺麗なくせに・・・・。 姉と暮らしていたあの家は、とてもよく片付いており、感心した ほどだったが・・・。宮城は仕事とプライベートの区別がはっきり としていることは知っている。だが、こんな所を区別しなくてもい いだろうと正直思う。 忍は鞄をソファに置くと、服が汚れぬよう、まずは腕まくりをした。 「こんなもんかな」 机の上に乱雑していた巻物と本をすべて下ろし、机を部屋におい てあった雑巾で拭く。大きさ順に本を並べ、巻物は本立ての隣に置く。 本の下に埋まっていた書類やプリントも、すべてひとつにまとめ て左横へ置く。右利きの宮城のために、灰皿はもちろん右横。 綺麗の基準は分からないが、それなりに整頓されたはずだ。 ・・・まだかな・・・。 ある程度時間が経ったはずだが、宮城の講義が終わる時間にはま だまだ時間があった。 イスに座り、宮城やっていたようにくるくる回っても、忍はすぐ 飽きてしまい、楽しくもなかった。 はぁ・・・と溜息つく音さえ、誰もいないこの部屋では大きく聞こえた。 宮城からメールが来たのは昨日の夜。 【明日、飯一緒に食うか?】 その一行が、どんなに嬉しかったことか。 会えるのも久々だが、メールの中とはいえ、会話をしたのも久々。 なんでも、卒論ゼミに向けての学生の相談が重なる時期らしい。 生徒の相談も重要だが、論文や授業の資料集めで勤務時間では足りず、 徹夜もざら。 「浮気をする暇もない程忙しいから、安心しろ」とベットの中で 笑う宮城を見たのは二週間前。 それ以降、メールも電話もしていない。 「余裕が出来たら連絡する」と言う言葉を信じ、忍は待つこと に決めたのだ。 宮城は、少しずつだが、確実に変わってきている。 付き合い始めて、本当に宮城が自分を好きなのか不安もあったが、 今では宮城のかすかな変化にも気付けるようなった。 俺のために本買ってくれたり、素直に自分の気持ちを囁いて くれたり、最近では・・・向こうから求めてくるようにもなった。 日を増すごとに、好きになっていく。 宮城も同じだったら・・・・嬉しいのだけれど・・・。 「宮城・・・・」 目を閉じれば、 頭を撫でながら、キスをくれる恋人の感触が蘇った。 幾度となく思い返した宮城の記憶、けれどもう限界。 早く本物に会いたい。 大きな体に抱きつきたい。 煙草の味のする、苦いキスをしたい。 いてもたってもいられず、メールの返事をした次の日、 忍は大学が終わるとすぐ、宮城を迎えに大学へ来たのだった。 「うー・・・・」 思い出したでけで、もんもんと、気持ちが落ち着かない。 ふあり・・・・と。換気のため開けていた窓から風が舞い込む。 夏の香りの中に、ほのかに宮城のにおいがした。 煙草のにおいなのか分からなかったが、確かに、恋人と同じかおりだった。 忍は誘われるように窓に近づく。 淡い色の雲が真っ青な空を漂っていた。 風は穏やかに吹き、忍の頬をかすめていった。 「だーれだ?」 触れられた感触に一瞬戸惑うも声から誰かを察すると、忍は嬉し さで胸がいっぱいになった。 「・・・宮城・・・」 目を覆われても間違えるはずのない恋人の名前を、忍は呼んだ。 首にかかる吐息がくすぐったくて、くすくすと笑ってしまう。 ぴったりと合わさった体からぬくもりと重みに、宮城の存在をより いっそう感じる。 「忍・・・会いたかった・・・っ」 掠れた声、宮城の我慢の限界を表わしていた。 甘い囁きに。忍は思わず赤面する。 宮城はあまりこう言う言葉を言わない。言う時は、それはキスの 合間か最中の時だけ。 俺だって・・・・・宮城に・・・・っ どうしよう・・・・凄く、キス・・・したい・・・っ 赤面する忍の頬に、宮城がキスする。 キスを願う忍には、以心伝心に感じられた。 「宮城・・・!」 素直な宮城に自分も応えたあげたいと思った忍は、離れていく唇 を追うように振り返った。 ガタンッ!!! イスが倒れる音と共に、忍の視界も反転し、背中全体を強打する。 何が起こったのか分からない忍を起こしたのは激痛だった。 「いってぇー・・・・!」 同じ研究室のはずなのに、宮城の姿はどこにもなく。ついさっき まで、いた気配も全くない。 取り残された聡明な忍の頭は、すぐに先程見ていた風景はすべて 夢だと気付いた。 〜〜〜〜っ なんだよバカッ夢かよ!! あまりの出来事に、のた打ち回る。 怒りより恥ずかしさが上回った。まさか研究室に来て、恋しさの あまり恋人の夢を見てしまうとは・・・・。 湯気が出そうな程忍は顔を真っ赤にさせた。 「・・・・アホらし・・・・」 いつまでも床に寝転がるのは馬鹿馬鹿しくて。 イスを立ち上げ、自分の肩に掛かっていた黒い背広を拾った。 え・・・背広・・・・・・? 背広なんて持ってきていない忍は手にそれを持ったまま固まった。 自分でかけた覚え持ってきた記憶もない背広。だが、どこかで見 たような形に、首をかしげる、 どこで見たんだっけ・・・? ふあり・・・・と。換気のため開けていた窓から風が舞い込む。 香ったのは夏のにおいではなく、いとしい人のかおり。 もしかして宮城が俺に・・・・? 時計を見ると、宮城の講義はとっくに終わり、次の講義を行って いる時間だった。 忍の予想を確実にしたのは、マグカップの下に挟まれたメモの紙。 【掃除ご苦労。 夕飯はお前の好きなもんおごってやる。 宮城】 小さな小さなメモに、忍の心を大きく優しく揺らした。 嬉しく嬉しくて、頭も胸もいっぱいで。 背広と一緒にメモをくしゃくしゃになるまで、胸に抱いた。 久しぶり見る宮城の字に、気持ちが溢れていく。 宮城・・・早く会いたい・・・・。 募っていく愛しさに胸躍らせ、もう一度メモに目を通した。 ふと見えた【P.S】の文字、小さな文字でさっきは気付かなかった のだろう。 改めて、メモの続きを読む。 【P.S 眠り姫はキスして目覚めると読んだんだが、 それは童話だけの話みたいだな。】 にやにやと、いけ好かない顔が忍の脳裏を過ぎっていった。 |