秋彦は眼鏡を外し、目の間の筋肉を指で和らげた。

 目が痛い。
 肩が重い。
 頭痛がする。

 気休めに筋肉をほぐしたが、体はだるいまま。
 眼鏡をつけても、視界はぼやけたまま。
 何時間も使ったパソコンは燃えてしまいそうに熱い。
 気分転換にコーヒーを飲んだが、冷えたきった液体は苦いだけで、美味くもなんともない。 
 秋彦は画面にある『上書き』のスイッチを押すと、パソコンの電源を落とした。
 目がチカチカとして、気持ち悪い。


 階段から落ちぬよう、手すりを伝いながら降りる。
 コーヒーを沸かしている間に、ソファで寝よう。
 そしたら、きっとこの不快感も治ま


「あ、ウサギさん。ご飯まだだよ?」


 帰宅も知らなかった美咲に、秋彦は驚いた。


「飯って・・・大学はどうした?」
「えぇ?ウサギさん寝ぼけてるの?もう六時近いよ」
「・・・そんな時間だったか」


 大学に行く前にと、美咲がコーヒーを淹れてくれたのが八時頃。
 となると、自分は約十時間近くパソコンに向かっていたことになる。
 確かに、今日はやけに筆が乗り、次の展開、次の次の展開が頭を駆け巡り、
久しぶりに書くことが嬉しく、時計を見る時間さえ惜しかった。
 そんな気持ちとは裏腹に、体は限界を迎えていたらしい。
 見れば、指がふるふると痙攣していた。
 そう言えば変な浮遊感と共に、足の痺れも感じる。
 黙ってしまった秋彦を不審に思った美咲が声を上げた。


「え!!ってかウサギさんッ顔色悪くない?!」
「・・・そうか・・・?」
「絶対悪い!なんか芋の宇宙人みたい!!」
「・・・それは芋を作ってくれる人への」


 「侮辱じゃないか?」と言い終わらぬうちに、美咲に背を押され、
ソファに寝かしつけられる。
 鈴木さんのふあふあした感触が背中をくすぐる。
 眩暈を起こした時のように、ぼんやりとして、すぐには反応出来なかった。
 やはり疲労が溜まっているのだろう。


「階段は危ないから、ひとまずここで休んでなよ」


 言い聞かせるように、体を押さえつけられ、じっと瞳を見つめられる。
 乱暴な言い方だったが、秋彦を見つめるその瞳は心配そうに細められていた。
 秋彦は大人しく美咲の言う事に従うことにした。
 

「分かった」
「待ってて、もうすぐ出来るから」
「美咲・・・」


 離れていく手を思わず掴み、そのまま腕の中に収めた。
 もう少し、ここにいて欲しいと思った。


「・・・ウサギさん?」


 返答はなく、ただ無言のまま子供のようにぎゅぅと抱き締められた。
 人は疲れている時、人のぬくもりを欲しがる場合がある。
 磨り減った何かを、他人で埋めようとするのだろう。
 今のウサギさんはそれなのかもしれない。
 でもその『他人』が自分で、少し・・・嬉しい。
 このままずっと抱き締められても良いかもなんて、思ってしまった。


「ほーら、いつまでひっついてんだよセクハラウサギッ
 飯、作れないじゃん」


 少しでも元気になってほしくて、美咲はわざと明るい言葉を選ぶ。
 力ずくで引き剥がすのは今の秋彦には忍びなく、軽くとんとんと背を叩く
だけにする。
 すると意外にも素直に離れていく秋彦に、反対に美咲は驚く。
 かなり疲れてるのだろう。
 美咲はそのまま抱かせてあげれば良かったかなと、ちょっとだけ後悔した。


「あのさ・・・ウサギさん。
 本当に、もうちょっとで終わるから。
 今日はウサギさんの好きな梅粥にするね」


 そう言うと、美咲は振り向きもせずキッチンに戻った。
 キッチンとリビングには隔てがなく、美咲がまな板で野菜を切る様子や、鍋をかき
混ぜる仕草がよく見えた。
 秋彦はぼぅとする頭でそれを見ていた。
 キッチンから香る良い匂いに、ふと、違和感を覚えた。 


『今日はウサギさんの好きな梅粥にするから』


 確かに、美咲は秋彦が弱っている時や風邪をひいた時などに梅粥を作ってくれる。
 酸味のきいたさっぱりした味わいは、出汁のきいた粥と相性良く、秋彦の好きな
手料理のひとつだった。
 しかし、キッチンから香るそれは、明らかに粥とは異なる、もっと香料のきいた
とろとろした食べ物。
 白米やナンにかけて食べるカレーと同じ匂いだった。
 よく見れば、先程まで煮ていた大鍋には手をつけず、新しく出した鍋をかき回す
美咲の姿が見えた。
 

 あぁ・・・わざわざ作り直してるのか・・・。


 もったいない。
 それが正直な感想だった。

 しかし、同時にふつふつと湧き上がり、ほのかな温かさを帯びるこの高揚感はなんだろう。
 与えられる、幸せ。
 美咲に与えられた幸福に、秋彦は知らず知らず笑みがこぼれた。
 
 夕食の準備が整い、向かい合っての食事。
 食卓に並んだのは、もちろん消化に良い梅粥と緑茶にたくあんや胡瓜のぬか漬けと
いった漬物の類。
 どれもこれも、秋彦の好きな物ばかり。
 夕飯を食べ終えても、秋彦は美咲の気遣いが嬉しかった。
 そうとは知らない美咲は、上機嫌な秋彦を不思議に思った。


 洗い物を済ませ、リビングに戻ると美咲は先程から注がれる視線が気になり、
ちらりとそちらを見る。
 その人は静かにこちらを見つめるも、口元では緩く弧を描いていたのだ。
 何も言わないくせに瞳の奥で語りかけてくる熱い視線。
 耐え切れなくなった美咲は乱暴にイスに座ると、向かい側の秋彦に話しかけた。


「・・・さっきからなんでしょーかてんてー?」
「ん?」


 口元に笑みを絶やさぬ秋彦に、美咲は訊ねた。
 なにがそんなにおかしいのか、と。


「おかしいのとは違うな、これは」
「じゃ・・・なに?」

 
 美咲ははっとなる。
 今までの笑みとは全く異なる、温かくて、愛しみのこもった秋彦の笑み。
 思わず、心臓が止まりかけた。


 な・・・なんだよ!!突然・・・っ


 息を忘れるほど、優しい笑顔に魅せられた。
 顔が赤くなるのを感じながら、何も出来ない自分がもどかしい。
 

「美咲が好きだってこと」


 惚ける美咲に秋彦が追い討ちをかけてくる
 鼓動が五月蝿く、わざとらしく大声で「は!?何言ってんだよ!!」と美咲は驚く。


「好きだよ」


 脈絡のない言葉に、美咲は赤面し怒鳴る以外の術が思いつかない。
 それでもなお、自分を愛でるような言葉は紡がれていく。


「触って、良い?」


 耳がくすぐったくて、鼓動が早くなる。
 耳を塞いでも、その良く通る低声は体の隅々まで響いて、美咲を追い詰める。
 甘くて、切ない声に、座っているのに腰が砕けてしまいそうになった。
 伸びてくる指を振り払う。
 嫌悪からではない、これは恥じらい。


「やめろよ・・・!」
「どうして?」
「五月蝿い黙れ!俺に触んな!!見つめんな!!!」


 そんな顔で、触れてこないで欲しい。
 愛された感触を忘れられない体が疼いてしまう。
 未だに慣れない愛しい表情や睦言に、一々反応してしまう自分が恨めしい。


「愛してるよ、美咲・・・」


 なぁ美咲、知ってるか。
 料理を作るお前の顔が、凄く可愛くて、温かくてさ。
 なんだかとても、せつなくなったよ。

 なぁ美咲。
 俺が言葉で必死に伝えようとしてることを、お前は簡単に伝えてくれるよな。


 お前みたいに上手には出来ないが、俺は俺なりに、お前を大切にするから。


 敬意と愛を込めて、


「 世界の誰より、愛してる 」


 俺の精一杯を、捧げます。