「俺の初恋は空だった」 そういう旧友に、俺達は顔を見合わせ笑った。  二十年以上経った今でも変わらぬ口癖に、俺達は呆れと懐かしさを感じた。  生ビールのおかわりを叫ぶ客の声が、やけに遠くに感じるほど。 「始まったよ」 「相変わらずだな」 「いいじゃないか、本当のことなんだからよ」 「はいはい」  お決まりのやりとりに、笑い声がわく。  同じ学場で育ち、違う道を選んだ友人達の久々の宴会だった。 老いを笑いの種にし、互いに貶し合っても笑えることが仲の深さの証明だった。 グラスが増えていく中、宮城は煙草に火をつけた。 「お前、パイロットになりたかったんだっけ?」 「あぁ。でも自分には向いてないって分かったし、諦めたよ」 「でもそういうものに限って忘れられないもんだろう」 「「女と同じ」」 お約束のような会話にもかかわらず、ぶわっと笑いが広がる。 「そーなんだよ。で、始めたのがラジコン」 「ラジコン?あのコントローラーで動かす車とかの?」 「まぁな。でも動かすのは車じゃない、飛行機だよ」 彼曰く、リモコンと呼ばれるコントローラーで操縦する模型飛行機を、 ラジコンと呼ぶらしい。 「天気が良い日に飛ばすと最高だよ。  青い空に白い機体が光ってさ。  まるで早い雲みたいなんだ」 そういう彼の目はキラキラしていて。 瑠璃色の大空を横切る白い鳥を、少年のような瞳で彼は語る。 「でも、ただ天気が良いだけじゃ駄目なんだ。  どんなに雲一つない空でも、風が強くちゃ話にならない」 本物の飛行機も、強風では離陸も着陸も出来ないのと同じ。  いくら小さな翼といえど、風の抵抗が大きければ操縦は困難。  人は空を飛ぶ技術の開発に成功したが、やはり自然には勝てない。 「だから自分が休みで、天気が良くて穏やかな風の日ってなかなかなくてさ、  あった日は本当にすべてが重なった今この時!って感じがする。  運命を・・・感じてしまうんだ」 宮城は思わず、恋人のことを思い出した。  図書館で見られていたこと。  不良から助けたこと。  結婚した人の弟だったこと。  赤の他人同士の人生と人生が、重なり合うこと。  アイツはそれを、【運命】と呼んでいたっけ。 「自分を含めたすべての条件が揃った時、それは偶然から【運命】になるんだ。  その刹那に立ち会えた時、俺はとても・・・幸福を感じるよ」  その気持ちを知ることは出来ないけれど、  その気持ちを知って泣いた奴の声は、  確かに、俺の一番大切な部分に響いていたんだ。  何度押したか分からない呼び鈴。  電子の鈴が来訪者を教えいるにもかかわらず、ドアはなかなか開かない。  やがてモニターでこちらの様子を見たのか、インターホンから驚い た声が聞こえてきたかと思うと、すぐにブツリ!と切れてしまった。  恋人に向かってその反応はないだろぉ馬鹿チンが!と、ポケットから 合鍵を取り出し、開かないドアを無理やり開けた。  玄関に入ると、今まさにドアを開けようとしていた忍が駆け寄ってくる。 「宮城!?」 「ただいまぁ〜マイスイートハニー忍チーン。  なーんちゃってぇ〜」  駆け寄ってきた肩を大げさに抱く。  潰れてしまいそうな華奢な体は、自分を支えられると思わなかったが、 本人の頑張りのおかげでなんとか倒れないでいた。 「落とすなよー頑張れぇーしのぶぅ!」 「この・・・酔っ払い!」  どんなに頑張ったって、  俺達が対等になれる日なんてこない。  そのなのに、俺を支えるために頑張る体が健気で。  細く冷たいこの体を、手離すことも出来なくて。  綺麗な肌に鼻をすり寄せると、不意打ちのことに甘い声が上がる。 もっと聞きたくて、火照る体を押し付け、首筋を舐めた。 「みや・・・おい!酔っ払・・・・・・んぁっ」  鼻に抜けるような声が可愛い。  酔いの浮遊感と満ちていく支配欲が心地良く、思いのまま彼を押し倒す。  重ねた唇、キスなんて行為じゃなかった。  舌で小さな唇の形を確かめたり、零れていく唾液を飲んだり。  掌の熱さに任せ華奢な体を、まるで氷を溶かすように触ったり。  シャツ越しに胸を弄っていると、そこに小さな実がなり、舌で愛撫する。    コイツと触れ合う度、俺の心は溶けていく。 「宮城・・・?」  どうしてそうなったのか。  崩れ落ちるように、気付けば忍の膝に頭を乗せていた。  見上げれば天井ではなく、忍の顔があって。  理性のない興奮が冷めていくのが分かった。  真上の顔が、心配そうに眉を顰めていていたから、大丈夫だと笑った。  がさがさの指先が触れるは、滑るような肌の感触。  肌ひとつでも、生きてきた年月の差を感じる。 「・・・・・・どうしたんだよ?」    恐る恐る入り込んでくる指が、頭皮を優しく撫でた。 「・・・・・・・」  髪が揺れ、柔らかな指、気持ち悪さなど微塵もなく目を閉じる。  頭を撫でられるなんて、何年ぶりだろう。  気付けば、こんな歳になっていた。  年を重ねる度、体は重く、成長することも、傷付く痛みも、怖くなるばかり。  いつしか、誰かと触れ合える奇跡にすら、俺は逃げていた。 「忍・・・」   お前に 伝えたいことがあるんだ。 「・・・なに?」   伝えなきゃ いけないことがあるんだ。 「・・・宮城?」     話さなきゃいけないことも、問題も、山積みだよな、俺達。 「なんで・・・」 でも、なんで俺だったんだ? もしも図書館で出会わなければ? お前が不良に絡まれなければ? 理沙子と結婚しなければ? 俺ではない【誰か】だったら、  お前はそいつを、好きになってたんじゃないか? そして俺は、忍のいない平穏な日々を、送れていたのではないだろうか。  不味いキャベツ料理を食べさせられたり、  先生の誕生日を忘れたり、  誰かに嫉妬することもなかったのか?   それはどんなに静かで、   穏やかで、   優しい風のふく、   とても・・・とても窮屈な世界なんだろう。 どうしてコイツだったんだ・・・っ 社会的にも常識的にも、二人が選んだ選択はベストではなかった。  コイツじゃなきゃいけない理由を知りたい。  もっと歳が近くて思慮深く器用な奴だったら、  きっとコイツは俺を好きにはならなかった。 しかし同時に、俺を好きにならない幸せな道を選択出来たと思う。 コイツはコイツで、 俺が俺だったから、 俺達は恋人になったとでもいうのか・・・ッ  『自分を含めたすべての条件が揃った時、それは偶然から【運命】になるんだ』 「・・・・・・っ」 だとしたら、この【運命】は、  俺にとって、旧友の言う素晴らしいモノなんかじゃなかった。   いっそのこと 出会わなければ良かった。 そうすれば、 誰かを想うあまり我を見失ったり、 寝る間も惜しむぐらい好きな研究の間にそっと淋しさを覚えたり、 ニュースを見てこぼす人々の言葉に、ビクつくこともなかった。 そしてひとびとに祝福されながら、結婚して子供が生まれる平穏な幸せ。  そんな幸せの可能性を、お前から奪うこともなかったのに・・・ッ たくさん、訊きたいことがあったんだ。 しかし、浮かんだ疑問や言い訳、仮定や苦しみは形にはならず消えていく。     そうじゃないだろ俺!! 違う、違う違う違う違う違う!  こんなことが言いたいんじゃない・・・っ  そんなことが言いたいんじゃない・・・っ  本当は、本当は・・・忍が・・・いや違うっ  俺は・・・俺はただ・・・ッ   運命じゃなくても いいんだ・・・ッ 「・・・・・・・・・・・・ッ」   気が狂ってしまいそうだ。 酔いの回りきった頭では思考は固まらず、胸の中で事の葉を散らすばかり。  なのにいつまでも、か細い指は、俺の髪を愛しげにすくのだった。 少し固めの感触と、ふわふわの布団の匂いに意識が浮上していく。  気付けばそこは、ベッドの上だった。 ズキズキする頭を抱え、意識が混濁している。  どうやら二日酔いらしい。 「痛・・・てぇっ」  体や頭が鉛のように重い。  布団を持ち上げ、起き上がっただけだなのに疲労困憊。  瞼までも疲れを訴えてくる。  そこで初めて、先程まで自分が眠っていたベッドが自分のではないことに気付いた。  見覚えのない天井に、さっぱりとした寝室。  脱ぎ散らかされたシャツやコートが、床に散乱していた。  記憶の断片を繋ぎ合わせる中、徐々に記憶が蘇る。  あの後、泥酔した俺は玄関で忍に抱きかかえられ、ここまで連れてこられて。  合鍵を使ったのか、部屋からパジャマを持ってきてくれて、着させてもらって・・・。  それだけでも十分情けないというのに、俺は忍に・・・何かしたのだろうか。  記憶はそこまで。  あとは綺麗に真っ白だった。  寝室を抜け、キッチンを通り過ぎると、キッチンにいた忍と目が合う。 「ちょうど良かった、今起こしに行こうと思ってた」 「・・・あ、あぁ。悪かったな色々」  使い終わったフライパンを水で流しながら、忍は「・・・別に」と答えた。  その声に怒りや呆れが含まれていないことに安心する。  酔った勢いで恋人を抱いた挙句、忘れてしまったのでは・・・という不安は打ち消された。  「そこに座って」と指示されるまま、宮城は背の低いテーブルの側に座る。  四角テーブルの上、宮城の家にあるはずの食器が並べられていた。  忍が作ったのだろう、どの食器も食べ物で満ちていた。  だが、並べられた料理はどれも風景の一部にしか見えなくて。  匂いを嗅ぐと、胃の中身が逆流する。口を押さえ、なんとかそれらを下した。  頭痛と吐き気にみまわれ、食欲など湧くわけもない。 「あのさ忍、悪いんだけど・・・」 「あ。そうそう、ウチ、あんま物ないからアンタの所の食器借りた」 「いや、それは良いんだが・・・」  「ならイイよな」と、さして悪びれた様子もなく、忍は持ってきた最後の料理を宮城に手渡す。  それはもちろん、宮城の家にあったお椀で。中身は味噌汁だった。  ほわんとしたほのかな温かさに、宮城は我を忘れ時間が止まる。   「二日酔いに、味噌汁が効くって・・・聞いたから」 「へ・・・へぇー・・・」  顔が上がらない。  いや、上げられなかった。    恋人の顔を見たら最後、誤魔化しきれなくなりそうで。  嬉しさと照れ臭さが混じった顔を、見られたくなくて。  いつもなら悪ふざけのひとつもやれるのに、今日は胸の真ん中に忍の言葉が響き過ぎて、 愛しさしか湧いてこない。  茶碗に当たる箸の音が、やけに大きく聞こえた。  ヤバいッ  俺・・・いつの間にこんなにコイツのこと・・・っ  誤魔化すように、味噌汁に口をつける。  「美味しい」「不味い」とかいう次元ではない。  ただただ、塩辛い。  しょっぱくて、ぬるぬるとしたものが舌に乗る。  出汁が入っていないのだろう、味噌の味はするものの、どこか素っ気無い味だった。  飲み下せないほどの味ではなかったので、さっさと喉に流してしまう。  ごくりと飲み下した瞬間、体の中から何かが広がっていくのを感じた。 「・・・どう?」  固唾を飲んで、宮城の反応を見守る忍の顔は真剣そのもの。  穴が開くほど見られても、評価が変わるわけもない。 「・・・うん」 「え?」 「うん。まぁ・・・予想的中っというか」 「は?」 「この真っ黒でしなしなの物体は・・・キャベツだろ?」 「そうだけど?」 「で、このベトベトの食感が新しい塊は・・・味噌で?」 「あぁ、なんか溶けきれなくてさ」 「・・・出汁は?」 「だ・・・し・・・?」  言葉を覚えたての子供のように、新しい言葉に首を傾げられる。  分からぬ知識を埋めるように、忍はポジティブに考えた。   「分かった・・・今度は長野産のキャベツで作ってみる!」 「産地の問題じゃねぇーから!」  あくまでキャベツにこだわるところが分からない。  コイツは出会った時からそうだ。  やれ運命だの、責任を取れだの、死んでも好きだのッ  そういうのは、ドラマの中だけにして欲しい。  前も言ったかもしれない台詞だが、これ以上俺を巻き込まないでくれッ 「お前はもう少し、素直に教わることを覚えろッ今度教えてやるから」 「そういうの、いらないっ」 「忍・・・っ」 「五月蝿い!」 「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥だッ」  宮城がキャベツの炒め物に手を伸ばしたところで、口論は強制終了となった。  苛立ちを隠せない忍だったが、このまま怒っても大人げないと学習してか、 しぶしぶと乗り出していた体を元の場所に戻した。  刺々しい様子の忍を他所に、宮城はキャベツ炒めをもくもくと口に運ぶ。 「でもま・・・」  白米と一緒に、不味い味噌汁も飲む。 「この炒め物は、まぁまぁ美味い」  怒りでギスギスしていた空気が、一瞬にして柔らかい色に変わっていく  心なしか、忍の頬は赤く染まっていて。視線も宙を彷徨っていた。  「ご機嫌取りかよッ」と口では悪態つくも、その瞳は安堵に揺れていたのを、 宮城は見逃さなかった。  そしてもう一度、お椀に口をつけた。      出汁も入っていない味噌汁が、美味いわけがない。  だが何もかもが物足りないはずなのに、そこには【何か】が入っていて。  飲む度に、宮城の中にできた空洞を、少しづつ、満たしていくのだ   運命なんて どうでもいい。 「頼むから上手くなってくれよ。  なんせこれからずっと、お前の味噌汁を食うんだからな」  宮城の告白を、忍が理解する事はなく、ガンを飛ばされるだけだった。   やっぱり、俺にはコイツしかいない。  宮城は自分を愛してくれる、まだまだ幼い恋人に、一人微笑むのだった。