マフラーを巻き直し、見上げた空はどこまでも遠く澄んでいて。吐く息は白かった。 鞄を抱え、帽子を被った学生達が宮城を追い抜かしていく。 学校の帰りなのか、友人と走っていく背中は若々しく、こちらまで元気を与えられた。 ふと思い浮かんだのは、彼らと同世代ぐらいの少年の顔。 端正な顔付きと、白椿のような繊細な肌をした美しい少年だったが、いかんせ ん生まれつき体が弱かった。 彼らと違い、走り回ることは出来ないものの、その身に宿す力強さは、彼らよ りも強いかもしれない。 そう言えば、最近体の調子も良いと聞いた。 少し外に出るくらいなら、体に障らないだろう。 温かい春の訪れが、 今は待ち遠しくて・・・。 宮城はそっと、微笑んでいた。 高槻と書かれた名札の下がる大きな門をくぐり、宮城は引き戸を引く。 「御免くださーい」 長い廊下に宮城の声が響いていく。 やがてどこからか応答の声があった。 出てきたのは高槻家のお手伝いさんである、小雪さんだった。割烹着を着た小 雪さんは帽子を取り、頭を垂れる。今日も、宮城の来訪を歓迎してくれた。 小雪さんに連れられ廊下を歩いていると、中庭に花が咲いているのが見えた。 濃緑の葉の中にひっそりと咲いた、白い花。桜のような絢爛さはないが、その慎 ましい姿に、心が和む。 長い廊下の末、彼の部屋に辿り着いた。 「坊ちゃん、忍坊ちゃん。 宮城先生がお見えになられましたよ」 膝をついた小雪さんが丁寧に襖を開ける。 徐々に開き始める、向こうの世界。 布団の端が見え始めかと思うと、すぐに白くて細い腕が見えた。 日差しがきらきらと青年の横顔を輝かし、微動する唇は風に舞う小さな花びら のようだった。 「遅ぇよ」 儚い容姿とは裏腹な強気な一言に、宮城は苦笑した。 そこにいたのは宮城の教え子、忍だった。 「は?運命・・・?」 「そう」 肌寒さに上着を着せてやっていると、忍はひとつ大きく頷いた。 「異国の言葉にあるだろ、運命ってやつ」 「あぁ・・・『宿世』みたいな意味だろ」 宿世とは仏教用語で、輪廻転生と深く関わり合いのある言葉だった。 人は死んだ後、生まれ変わりを繰り返す。 生きては土に還り、また命が生まれると天に還っていく。つまり自分が生きて いる今ではない別の人生を生きて死んだ結果、現在の世界に自分は生きていると いう事だ。 以前生きていた世界を前世と呼び、その行いの善し悪しで次に自分が生きる環 境が変わってくる。 また、前世で関わり深い存在とは、次に生を受ける時も巡り逢えるという話だ。 昔はそれを宿世と呼び、「あなたとは宿世から結ばれた縁」だとか、恋しい人を 口説き落とす際などに使われる常套句だった。 「運命は宿世じゃなくて。 運命は確かに決められていたものだけど・・・でもちょっと違って・・・っ」 忍の言う運命とは、俺達の出会い方だった。 俺は貸本屋を経営していたのだが、そこにたまたま客としてやってきた老人に 道を訪ねられ、分からないと言うので近くまで送っていった。 老人を見送っている途中、突然名を呼ばれ振り返るとそこに、かつての師であ る忍の父親と再会したのだ。 訊けば病気がちな息子に精がつくようにと、仕事帰りに買い物をしている途中 だったのだと言う。 立ち話もなんだからと家に呼ばれるも、屋敷が騒がしく君は待っていてくれと 門で待っていると、道向こうから男達の声が聞こえてきた。 嫌な予感に、急いでそこへ向かうと、白い着物の少年を複数の男達が殴りか かっていた。 そいつらの背中を蹴り上げ、助けたのは見覚えのない、けれどどこか懐かしさ を感じる、まだいたいけな少年。 かすり傷はあっても、目立った外傷はほとんどなかった。 それが忍との出逢い。 「だから、何なんだ?」 「だから俺達が会ったのは、偶然って言葉だけじゃ片付けられないっていうか。 必然って言うか、・・・運命、だと思ったんだ」 「・・・なんだそりゃ。前世とかは信じないくせに、運命は信じるのかよ?」 「そうは言わないけどさ、自分が死ぬ前のことなんか分かるわけないじゃん? 俺は俺、宮城は宮城! そうだろ?俺は今、【ココ】に生きてるんだからッ」 「わけが分かりません・・・」 苦笑する宮城だが、本当はなんとなく、忍の言っていることが分かっていた。 それに、もしもこの出逢いが初めから決まっていた出逢いだったとしても、宮 城は驚かないだろう。 何故なら、忍との出逢いは、 宮城にとって必要で大切で、愛しいものとなったから。 「そうだ。忍、今度海に行こう」 「・・・海?」 きょとんとする忍を他所に、宮城は楽しげに話した。 「暖かくなったら、海を見に行こう」 「海・・・どうして突然?」 「お前最近調子が良いそうだからな。ご褒美もかねて」 「またそうやって」 「違う、」 ちゅっと音をたて唇を奪う。 「恋人を、甘やかしてんだよ」 そう笑うと、恋人に目をそらされた。 「運命は国外の言葉で『destiny』とか『fate』と言うらしいぞ」 「それどう違うわけ?」 「さぁな」 詳細は忘れてしまったと言われても、新しい外来語の言葉に、忍はどこか喜ん でいる様子だった。 「海は良いぞ、広いし、穏やかで優しくて・・・とても温かいんだ」 「海・・・か」 「決まりだな」 「俺まだ行くなんて」 「いや決まりだ。 暖かくなったら一緒に行こう。小旅行だ」 重ねた額から互いの熱を交換した。 なんだか互いの命を捧げ合っているような気持ちになった。 捧げられるもの、捧げてやりたい。 長生きなんかできなくても、 この無邪気なひとを延命できるのならば、喜んでこの命を捧げよう。 「約束、だからな」 「あぁ。 俺が必ず、お前を連れて行ってやるよ」 それが俺が忍についた、最初で最後の嘘だった。 「宮城・・・?」 忍の声にハッとする。 頬を伝っていくものを手で拭う。 それは涙だった。 潮風を頬で感じながら、俺は泣いていた。 「どうしたんだよ、急に・・・っ」 冷たくて。 苦しくて。 悲しい【記憶の断片】が蘇る。 ごめんなさい。 俺はひとり 幸せになっている。 「そっか・・・俺、だけ・・・ッ」 でももう 君はここにはいない。 「どこにも・・・どこにもいなんだな・・・っ」 ごめんなさい。 ごめんなさい・・・謝っても謝っても、この罪が消えることはないのに。 それでも謝りたい。 俺はただ、立ち尽くすことしか出来なくて。 お前の最後の声も、聞いてやれなくて。 俺は泣いてばかり、いたんだ。 「ごめん・・・忍・・・ッ」 それでも許されるならば、俺は君を――――――。 宮城、 好きになってくれて ありがとう。 あぁ・・・海が、聞える。