それは四年前の、ある日のことで。 自動ドアを通り抜けると早速、古い本の匂いが忍を歓迎した。 カウンターを過ぎ、縦に並ぶ本棚を巡る。
図書館に来ていたが、忍の目当ては本ではなかった。 いた……! そこにいたのは黒髪の男。 正確な歳は分からないが、忍よりかなり年上。 少なく見積もっても、十歳以上は離れているだろう。 男の邪魔にならぬよう、忍は息を潜め。 同じ棚の本を読むふりをして、男の様子を窺った。 男はこちらに気付く様子もなく、棚から抜き出した本を今日も楽しそうに眺めていた。 あ……。 ふわり……と、花が散るような儚い笑みに、 息をするのも忘れ、 ただじっと、 その横顔を見つめることしか、出来なかった。 この数週間、 忍は毎日のように図書館に通いつめていた。 目的はもちろん本ではなく、『彼』だった。 以前、気まぐれで立ち寄った図書館。 ふと目に入ってきた『彼』の横顔は、今でも忘れられない。 本を持つ指や視線、口元に至るまで、『彼』が本を愛していることが伝わってきた。 そして誰かのためではなく、己のうちから溢れ出た笑顔は、 儚くて、純粋で、あどけなかった。 自分より年上の男性にあどけないという表現は一見矛盾しているように思われるが、 その単語が、一番『彼』に合っていたのだから仕方ない。 その笑みがまた見たくて、『彼』に会いたくてと思ううち、忍は図書館の常連に なっていた。 気付けば図書館以外の場所でも、彼を思い出すようになり、面影を追っていた。 彼は本を戻すと、忍の意識出来る範囲から姿を消してしまう。 追いかけたい気持ちを抑え、気付かれては元も子もないので、その場からあまり 動かないようにした。 そっ……と、先程彼が読んでいた小豆色の背表紙をなぞる。 金色で書かれた題名の部分はへこんでおり、文字の形が指先にでこぼこの感触を伝える。 彼と同じものに触れている。 そう思っただけで、胸が騒ぐのは何故なのだろう。 彼を見かけて以来、どこからかやってきたのか分からぬ違和感が、なかなか 消えてくれない。 適当な本を選び、テーブルで読んでいると、遠慮がちに肩を叩かれた。 もしやと振り向くも、淡い期待は文字通り泡のように消えた。 見知らぬ女の子がそこにいて。 「すみません……ちょっと……いいですか?」 彼女の向こう側を、あのひとが通り過ぎていった。 「突然ごめんなさい。 でも今日もあなたを見かけたら、いてもたってもいられなくて……」 もじもじと手を擦り合わせながら、その子は言った。 顔は真っ赤で、薄暗い図書館の廊下でも分かるくらいだった。 「先週の木曜にあなたを見かけてその……次の日も……いたよね。 それで……あの……凄く、気になっちゃって。 最初は……男の子でも文学の本とか読むなんて珍しいなって思ってて。 でも熱心に通う姿見て、真面目な人だなぁって。 私もそういう本、読むから、はっ話できるかなって色々考えちゃって……」 震えていたけれど、彼女の声には芯があり、とても聞きやすかった。 だから余計に、罪悪感が募る。 この子は、本当に本が好きなのだろう。 彼女ならきっと、あのひとの気持ちが理解出来るのだろう。 けどゴメン、俺は……違うんだ。 こんなに真剣に想ってくれているのに、この子の気持ちを……踏み躙っている気がした。 神聖で大切な何かを、 俺は穢してしまったのかもしれない。 「それで知りたくなって……っ 気付いたら、すっ……好きになっていました……!」 一気にそこまで語ると、彼女は「はぁ……」と大きなため息がこぼした。 恥ずかしさと呼吸困難で、肩で息をして、真剣さが伝わってくる。 やがて落ち着くと、真っ直ぐに忍の瞳を見つめた。 傷つくことを恐れぬ、強い瞳。 けれど握った拳は、小刻みに震えていて。 けれど優しい言い方なんて、俺には出来なくて。 「ごめん。 …………君とは、付き合えない」 一言一言を発する度、胸の中をかき混ぜられるような不快感が、忍を襲う。 何度味わっても、未だ慣れない。 しばらくの間、彼女の目を見れずにいた。 「ごめん………」 どうして? どうしてそんなに、一生懸命になれるのだろう。 相手は君を好きじゃないかもしれないのに。 それすらも乗り越えて伝えたい想いが、彼女にここまでの勇気を与えたのだろうか。 生温い片想いより、真実を欲しがる君が羨ましい。 ――― 俺には一生、 縁のない強さだと、思っていたんだ。 窓を見て初めて、雨が降っていることに気付いた。 年季の入ったカーテンの枠縁から見える窓越しの空は、曇っていて。 小さな雨粒が世界を濡らしていた。 彼女は俺の名前を知りたがった。 どこの学校かとか何年生とか、彼女はいるのかと質問攻めにあった。 けれど、俺は彼女にひとつも質問をしなかった。 彼女は俺を知りたいと思うのに、 俺は知りたくないと思う。 その三文字の違いはあまりに大きく、残酷だった。 それでも、 彼女はそんな俺に嫌な顔ひとつせず、笑っていた。 またねと彼女は図書館を後にしたけれど。 彼女はもう二度と、この図書館を訪れないような気がした。 雨が降る。 小粒だが永遠に続くような長雨を、俺はひたすら眺めていた。 夕方になり、いよいよ本格的な暗闇が世界を覆っても、雨は止まなかった。 迎えに来てもらおうかとも考えたが、もう少し、ロビーから長雨を見ていたかった。 俺は逃げていたのかもしれない。 今までの俺の人生は【適当】と一言に尽きる。 勉強も、スポーツも、友人関係も、みな適度。 友達は別物だが、他は別に熱くならずとも、短期間の集中力や根気さえあれば、 それらは全てこなせてきた。 努力していないわけではない、ただ夢中になれるものがなかった。 …………あのひとと、出逢うまでは。 俺、ゲイ……だったんだろうか………。 詳しいことはよく分からないが、男が男を好きになるということは、やはりそう 言う感情を同性に抱く可能性があって……でも、同性の友人をそーゆーで見れる かって言ったら………正直無理な話だ。 じゃぁ俺って何?と思う…………いや違う。 忍はぶんぶんと頭を振った。 そんなの、ただの言い訳だ。 本当に好きなら、性別なんて関係ない。 環境も歳の差もあのひとが誰かなんて関係ないっ そう思うと、 急にあのひとの儚い笑顔が頭を過ぎって。 優しくて激しい光が、胸に宿る。 そしてなんとなく、理解が出来た。 これが………『片想い』? 初めての経験に、恥ずかしさでいっぱいになった。 実感なんて全然湧かなくて、戸惑ってしまう。 まさか自分が恋をするなんて……考えたこともなかったのに。 とにかく落ち着かなければと髪を掻きあげ、面を冷やす。 もう毛細血管の先まで熱い気がした。 冷やそうと頬に触れた手も、熱い気がする。 後ろから気配に、きっと利用者の帰宅だろうと気にしないでいると、 ぽんぽんと肩を叩かれた。 「傘」 十数年間使ってきた目を、初めて疑った。 黒髪、長身、濃紺色のネクタイに黒の上下のスーツ。 思わず息を飲んだ。 「君学生だろ? 親御さんが心配するから、これ使って早く帰りなさい」 そう笑う彼の顔は、今までに見たことのない薄い笑顔だった。 『建前』という、愛想笑いなんだと忍には分かってしまった。 「どうした?」 「………別に」 自分はそうでも、彼にとっては初対面。 忍は変なことを言わぬようにと、自分を押さえ込む。 本当は訊きたいことが、 伝えたいことが、 知って欲しいことがたくさん………たくさん、あった。 「傘ないんだろ?」 「……いらない」 「あるのか?」 「いや、ないけど……」 アンタが濡れるは、嫌だ。 喉の奥まででかかった言葉を、飲み込む。 まともに顔なんて見れなくて、赤くなりそうな顔を必死に隠した。 「安心しなさい、俺はタクシーを呼んだから」 そう言っている間に、施設内のタクシーの明かりが入ってくるのが見えた。 これで終わりかよ。 行っちゃうのかよ。 そんなの嫌だ……っ もっと声を聞きたい。 話していたい。 傍にいたい。 離れたくない。 ふいに手を握られ、全神経が手に集中する。 触れられた指先や、ぬくもりが手から伝わり、体中を犯していく。 どくどくと鳴る心臓。音を消そうと左手で握りつぶした。 「それ使って帰りなさい」 握らされた固い感触と引き替えに、彼の手は離れ。 自動ドアが開き、背中が小さくなっていく。 気付けばその後を追っていた。 雨など気にしない。 寒さなど関係ない。 「あの……!」 頭の中で、今更思考がぐるぐると回る。 言いたいことはたくさんあったけれど、どれも今すぐ彼に伝えたいことではなくて。 気の利いた言葉を言おうと思うのに、彼と話せたことが嬉し過ぎて、気持ちは空回る。 やっと出てきたのは、なんてことはない礼の言葉。 「ありがとう……ございました!」 無我夢中で絞り出した声は、きちんと言葉になっていたかは分からな かったが、背広で頭を覆いながら走る背中の向こう側。手がひらひろと 動いていることだけは、分かった。 やがてタクシーは、排気ガスを吐きながら消えていった。 呆然としていた。 初めて聞いた声は、響くのある、優しい声だった。 今でも鼓膜が震え、心臓の鼓動は止まない。 年上だろうと、ゲイだろうと関係ない。 好きが溢れていく。 これが・・・恋。 立ち止まっていも仕方ないと、忍は傘を使うのが勿体無くて、鞄に仕舞おうとした。 と、傘に書かれた文字に唖然とした。 柄にデカデカと、 【中央図書館 連絡先○○○−○○○○】 とマジックで書かれていたのだ。 つまり、これはあのひとの私物でも何でもなく、図書館が貸し出している傘だったのだ。 思わず、止まらない怒りの矛先を傘に向けられ、 危うく折りたたみ傘を、よりコンパクトにしかけた。 まさかあの後、自分の姉と結婚して失恋するとは思いもよらず。。 また色々とあって、なんとか、自分は今ここに存在することが出来たわけで……。 あれから四年。 俺は大学生になり、T大に通うことになった。 自動ドアの出迎えと、図書館独特の匂いに、懐かしさを覚える。 ここは、あの頃のまま。 年季の入ったカーテンも傷だらけの机も、 そして戸棚で休む本達も、なにひとつ、変わっていなかった。 「お待たせ」 唯一大きく変わったことと言えば、 「返却終わった」 隣に、彼がいること。 「本見てって良いか?」 「……言うと思った」 悪かったなと苦みのある笑みに、ほっとする。 うわべだけの笑顔は、彼には似合わない。 けれど、本に触れる時のあの愛しげな表情はなにひとつ変わらぬまま。 未だ……嫉妬してしまう。 「なんだよ?」 気づかぬ間に睨んでいたらしく、居心地悪そうな非難の声が上がった。 それを素知らぬ顔で「別に」と答え、適当に本を選び読む。 本の中、書かれていたのは和歌の原文と解釈だった。 見たことのある内容に、背表紙を見て予想が確信に変わる。 これは四年前、宮城が読んでいた本だった。 あの頃は紙が綺麗だったはずなのに、今は人の手を渡りすぎたのか、薄黄色に 汚れ始めていた。公共物のはずの本には、鉛筆で書かれたチェック線や折り目の あとがあって。 本の中には、確かに四年の歳月が刻み込まれていた。 「あ」 宮城の声に引かれ、窓を見る。 雲間に差した眩しい光。 まるで空から建てられた柱のように、空と大地を結ぶ太陽の柱。 「綺麗だな」 「うん………」 本が大好きなところとか、綺麗なものに惹かれるところとか、時折見せるあどけ なさは今も変わらず、俺の心を揺れ動かす。 やっぱり、あの頃となにひとつ、変わっていない気がした。 本をめくるために空いている右手を捕まえて、 俺だけの手にしてまえたらと思う。 でも出来ない。 そしたらきっと、この優しげな横顔を崩してしまうから。 俺はそっと、左手を握り直した。 花の色は移りにけりな 徒に 我が身世に降る ながめせしまに 花の色は変わっちゃいない。 今でも俺はこのひとに惹かれていて。 変化を求めているくせに長雨を眺めている。 だが不毛な恋をしているとは思わない。 宮城は窓から視線を外すと、再び本を読み始めた。 「雨……長くなりそうだから、もう少し雨宿りするか?」 そう呟く横顔の優しさに、胸の中の突っかかっていたものが溢れ出す。 雨なんて、降っていないのに。 否定することも、火照った頬を誤魔化すことも忘れ、ひとつ小さく頷いた。 指に絡まるぬくもりを、握りしめて。 名前を呼ばれて、切なくて。 幸せを、噛みしめて。 人気の少ない平日の図書館は、隠れる場所も多いことを、この人は初めから 知っていたのだろう。 先程まで降っていた雨のせいで窓は冷えており、シャツ越しには冷た過ぎて。 カーテンに手が引っかかり、シュ……ッという甲高い音が聞こえた。 「おい、宮……っ」 その瞳は、愛しいものを見つめるの瞳と、忍は知っていたから。 「しッ」 優しげで嬉しいはずのその笑顔が、今は憎くてて。 これ以上の会話はお終いと、唇に当てられた指先。 余裕な表情を崩してやりたくて、思いっきり噛んでやった。 それはあれから四年後の ある日のことだったのだ。