Waltz



今思えば、それは悪魔の囁きだったのかもしれない。  ゛コイツは何も分かっちゃいないんだ ゛ ―――何故そんなくだらない囁きに耳を貸してしまったのか、    今思えば、    まったくくだらない話なのに、当時の俺は必死で、切羽詰っていたのだ。     ひとりでいる時間が、あまりにも、長かったから。 「なんだよ」  煙草を奪われ、それだけでも怒鳴ってしまいそうだったのに、見上げた瞳は 自分以上の怒りを抱えているようだった。 「何すんだって訊いてんだよっ」 「煙草、これで三箱目。アンタ、マジ死ぬぞ」 「・・・ご忠告、ドーモ」  胸ポケットから煙草箱を取り出そうとすると、それも没収される。  忍は俺から、ニコチンまで奪おうと言うのか。  苛立ちを隠せず軽く睨む。 「なんだよッ  人がせっかく心配してるのに!」 「・・・・・」  それが大きなお世話だって言ってんだよッ     喉まで出かかった棘のある言葉を、なんとか飲み込む。  それは思っていた以上にイガイガとしていて、飲んだ後も腹の中で暴れていた。  ゛所詮、コイツとは生きる世界も価値観も違う。  てめぇーの気持ちを押しつけられても、嬉しくもなんともない ゛  そんなことはない。  コイツはコイツなりに一生懸命俺のことを・・・ッ  しかし否定し切れぬ自分も、どこかにいた。  悪魔の言うことは全て正しくはない、  が、  全て間違っているとも、言い切れない自分がいた。 「宮城・・・っ  なっなんだよ、その目」  焦りと疲労と目眩と 「もしかして・・・俺、邪魔なの?」  うぜぇ。  それは悪魔の声。 「飯とか、体の心配とかされんの嫌なのかよッ  でもそんなの恋人だったら、当然の心配じゃんか!!」  震えるこの声は忍の声。  勇気を振り絞って訊ねていた。 「それでも・・・俺は・・・邪魔?」  一途に俺を信じる瞳は、 「いい加減に、してくれ・・・っ」 否定の言葉を待っていたのに。 「ひとりに、してくれよ・・・ッ」 俺は悪魔に身を委ねてしまったのだ。 「・・・授!  ・・・教授!     宮城教授、起きてください!!」 「・・・あ・・・」  弾かれたように聞き覚えのある声に目が覚める。  そこにいたのは、部下の上條だった。 「大丈夫ですか?」 「あっあぁ・・・・・」 夢見が悪かったのか、背中が汗で濡れて気持ち悪い。  冬だというのに、高揚した体は変な熱気を放っていた。 「昼食べました?」 「いや・・・まだ」 昼食どころか、最近では家には寝に帰っているようなものなので、 昨日の夕食もまだだった。  上條は気を使ってくれたのか、宮城の分の店屋物も注文してくれた。  やがて到着する頃には、すっかり食欲も戻ってきて。  テーブルの上に置かれた親子丼から、出しの良い匂いがたまらなかった。 「そんなに忙しいんですか?」  割り箸を丁寧に割る上條とは正反対に、宮城は口を使い箸を割った。  パチンッと割れた割り箸は、綺麗に割れず、とても不恰好だった。 「あー・・・二件の締め切りが重なってな。  あとテストの採点と、レポート課題のチェック・・・とかな」 「とかなじゃないですよっ  なんですかその量っ  多いからって蔑ろにしてたら、後々困ったことになるんですよ!?」 「はは・・・っ」 その通りなので、宮城は否定する力もなく煙草に火をつけた。 「教授、飯食うか煙草吸うかどっちかにしてください」 「お前俺の上さんみたいだな」 「ぶ・・・!!  はァ?なに言ってるんですかもうっ」  噴出して汚れた口元を拭きながら、上條は蕎麦を摘まんだ。 「恋人と喧嘩して不機嫌になった時の友人も、そうやって煙草を吸いながら飯食って。  今の宮城教授と、そっくりで気になっただけですよ」  『蔑ろにすると、後々困ったことになる』  上條の言うことは、いつも正しい。  今まさに、俺は『困ったこと』になっていた。  吐く息はやけに白く、毒々しい。  灰を食らう悪魔のような毒を吸って、俺は落ち着いていた。  上條にはこれ以上迷惑をかけたくなかったので、換気のために窓を開ける。  開け放った先には青い空。  真ん中には大きな太陽。  宮城には眩しくて、直視も出来なかった。  もしかしたら、天にいる神様にまで、嫌われてしまったのかもしれない。  悪魔に魅入られ、耳を傾けてしまったから。 「どこ行っちまったんだか・・・あのガキ」  いっそのこと、  この空に向かって蒸発してやりたい。  そしたらきっと、この罪も一緒に消えてしまうのだろう。  二週間前に言った言葉通り、宮城はひとりぼっちになっていた。  窓に項垂れる背を見ながら、上條は蕎麦を咀嚼していた。  彼を襲っているのは、焦燥感や疲労だけではないことぐらい、上條には分かっていた。  けれど『なんとかしてあげたい』などと、偽善ぶるつもりはない。  所詮、自分の枠をはみ出たことをすれば自分にも、また宮城自身にも、結果的に悪い ことが起きるかもしれない。  自分にできることは、あのひとの心配ではなく、サポートだから。 「・・・忍・・・」  寂しげ声も、今は聞かないふりをしておこうと、上條は思ったのだった。  見上げた空はやけに高く、陽は眩しくて。  まるで俺の罪を責めているようだった。  やるべきこともなんとか終え、  嵐のような日々も終わってしまえば過去のこと。  俺はようやく腹をくくり、忍のケータイにリダイヤルした。  かけようとする度、意地を張る自分が指を止め、液晶にはいつも『発信中』から 『切断中』に変わっていた。  素早く切断しているので、あちらにも着信は残っていないだろう。  そしてようやく、決心がついたのだ。  ルルルルルッ  長い長いコールの後、  プチと言う音ともに聞こえた電子音に、思わず言葉を失くした。 『この電話は使われておりません。  番号をお確かめの上、もう一度お掛け直しください』  目の前が一瞬で暗転した。  混乱なんてものじゃない。  液晶のディスプレイには、確かに『高槻忍』と書かれているのに。  ケータイを変えられてしまったのだろうか・・・。    ショックだった。  自分のあの言葉が、彼をそこまで追いつめてしまったのだろうか。  とにかく謝らなければと、部屋を飛び出し、隣室のチャイムを鳴らした。  が、チャイムは鳴るばかりで応答はない。  押す度に不安は募っていた。  チャイムの音は、恋人の名を呼ぶ自分に思えた。  早く姿を見せてくれ、  早く声を聞かせてくれ、  早く、早く安心させてくれ。 「こんばんは」 「!?」  冷水をかけられた気分だった。  振り返った先、顔見知りの女性が立っていた。  その女性は髪が長く、内から溢れ出す優しさが目元に滲んむ、綺麗なひとだった。 「こ、こんばんは・・・」  違和感を抱きつつ宮城は答えた。 「誰か、探しているの?」 「えっ・・・えぇ」  探しているという言葉は正確ではない。  何故なら、この扉の向こうに俺の家の隣にアイツは必ずいるから。  しかしそこまで詳しいことを話す義務は、ないだろう。  彼女は眉を顰め、残念そうに言った。 「そう。  でも、今のあなたじゃきっと、あの子は見つからないわよ」  彼女の言葉に世界が回る。    色を失ったあの頃に似た、喪失感。 「頑張って」  頭を撫でられると目眩がして、  眠りにつくと言うよりは、その手に意識を吸い取られたと言った方が近いかもしれない。  何故・・・何故っ  俺は気付づけなかったのだろう。 「あ・・・っ」  今日は満月。  月の引力に魂が迷う日もあるだろう。  そのひとは、    あぁ・・・  そのひとは、大切な大切な・・・俺の初恋のひと。 「待って・・・!」  温かな眼差しも、  慈愛に満ちた優しさも、忘れるはずない。  俺はどうして、  名前を呼んであげられなかったのだろう・・・っ  最後の意識が覚えていたのは、胸に滲んだ痛みだけだった。  気付けばやはり、  研究室のソファーで天井を眺めていた。  急に覚醒したせいか、はたまた悪い冗談の夢のせいか、頭が痛い。  書類、締め切り、レポート、すべて終わって。思わず横になった誇りと煙草臭いソファー。  額には脂汗。  頬を伝う涙は、汗と見分けがつかなぬほど、惜しみなく流れていた。  こんなに泣いたのは久しぶりだ。  指に残るチャイムの感覚が、夢と現の境界を曖昧にする。  弾力あるボタンの感触は、未だ指先にこびりついていて。苛立ちのあまり、 その指で髪をかき上げ掻いた。  胸の奥底、心臓よりもっと魂に近い部分に刺されたような痛みが走る。  この痛みは、  苦痛からなのか、罪悪感からなのか。  思わず、ある『名前』を口にしかけた。 「・・・・・・・・」  どちらを呼んでも、俺は後悔する気がして。  それでも、 「せん・・・せっ」  呼ばずにはいられなかった。  唇に浮かんだもうひつの名前は、  静かに消えていくのだった。                   ― 続 ―