*  TERRORIST  *



coffee break / ワイシャツの誘惑 / 待ってたよ / 可愛いひと / (50.貴方の生まれた日)


















































< coffee break >




「コーヒー、淹れなおす?」
「あー・・・」


「はい」
「おー、悪いな」
「別に。暇だったし」
「あー・・・かまってやれんで悪かったって。
 あとちょっとで終わるかもしれないでもないから・・・」
「それ・・・どっち?」
「あーだから・・・。
 もう少し待・・・だな・・・ん?
 お前もコーヒー飲むんじゃないのか?」
「は?なんで?」
「だって『コーヒー飲むか?』って自分のついでだったんじゃ」
「・・・俺、ペットボトルあるから」


 ・・・えっと・・・
 もしかして忍チン・・・俺のためだけに・・・?


「・・・仕事・・・しねぇのかよ・・・?」
「・・・。
 ・・・お前こそ、雑誌読まないのか。
 五分前からページ変わってねぇみたいだけど?」
「な!?なに盗見してんだよ!!」


 お前だって、俺が煮詰まってるの、盗み見してたくせに・・・。


「やーめた。やっぱ今日無理だわ」
「なんだよっ
 人がせっかく・・・コーヒー淹れたってのに・・・。
 うわ!?な・・・なに?!なんだよ!・・・・んっ」

 求め合うような深いものではなく、軽く触れるだけのキス。
 いきなりのことに、忍は眉を顰め驚きながらも、頬を真っ赤に染めた、


 たかがキスなのに、なんて顔してんだよ。
 ・・・可愛いじゃねぇか・・・っ


 顎を上に向かせ、今度は許しを請う。


「忍・・・キスして・・・良い?」
「・・・。
 ・・・・もう、した・・・じゃん」

 
 俺のシャツを握るこの手は、
 続きをお許しになったってこと、だよな?


 再び口付けすると、先程のキスとは比べ物にならない激しいキスを交わす。
舌先を吸い、刺激を与えると、唇の隙間から忍の甘い声が漏れた。
 頭を押さえ、更にキスを深めると、息苦しいと胸元に手がとんとんっと合図する。
 絡ませた舌先が、名残惜しそうに離れていく。
 久しぶりの冷たい空気に、忍は「ふぁ・・・」と呼吸した。

「苦・・・っ」
「ぷっ・・・おこちゃま」
「いちいちうるせ・・・んっ」


 生意気な口を塞いで、宮城は忍を抱き締めた。


 砂糖のような甘い時間と、
 コーヒー味のキスはいかがかな。



























< ワイシャツの誘惑 >



  ジュージューと言う音を響かせ、目玉焼きを焼く忍。


 朝早く目覚めた方が朝御飯を作る、それが自然に出来た
二人の暗黙のルール。
  テーブルにつき、新聞を広げる宮城だったが、今日はい
つものように料理を指南することなく、静かに座っていた。
  何故なら、忍の顔を見ただけで、いたたまれない気分になるからだ。


「宮城ー
 ベーコンとウィンナーどっちにする?」
「・・・・・・」
「聞いてんのかよ、宮城」
「はっはい?!
 なっなんでしょうか忍ちゃんっ」
「・・・・・・ベーコンとウィンナー、どっち焼く?」
「あっあぁ・・・おっお好きな方で」


  宮城の態度が気に入らない忍は、乱暴にウィンナーの封
を破り、フライパンにあけた。
  忍の様子に、宮城はまた落ち込む。


  おいおい・・・っ
  なに動揺してんだよ・・・三十路のオヤジが!


  頭を抱える宮城の横を、焦げにおいが通過していく。


「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
「・・・あぁ悪い、焦がした」


 表情ひとつ変えず、忍は謝罪をした。
  テーブルに並べられたおかずはすべて、必ずどこかしら黒
い部分が見受け、目玉焼きからはぷすぷすという音聞こえた
のは空耳ではないはず。
 食が進まないのは別の理由であったが、箸の動きの鈍さに
気付いた忍はさらに付け加える。 


「気になるなら、黒いところ削って食って」


 相変わらず力技だなお前・・・・ってそうじゃないだろ。
 
 やはり、
 忍には教えなればいけないことが山ほどあるようだ。


 宮城は知らず知らずに頭を抱え、年下の恋人を諭した。


「あー・・・忍チン」
「ん?」
「あのさ・・・非常に言いにくいんだが」
「・・・。
 分かったから、さっさと言えよ」
「だから・・・その・・・っ
 ・・・・その格好は・・・なに?」


  宮城が指摘した姿とは他でもない、忍は自分の服が汚れ
たからと言って、あろうことか、宮城のワイシャツを着ていたのだ。

  ワイシャツはワイシャツのでも、宮城の物なのでもちろ
んサイズが合わず、ぶかぶか。しかも昨夜の宮城がつけた
首筋や胸元鬱血の痕が、開ろがった合わせからよく見えた。
  見える物は胸元だけではない。


「しかもお前下・・・履いてないだろ・・・」
「下は流石にずるずるし、暑いから。下着は履いてる」


 テーブル下、足を組む姿を想像するだけで、宮城ははぁと溜息をついた。


  誰かこの天然記念物に、
 男の・・・と言うか、常識を叩き込んでやってくれ・・・!


「なっなんだよ・・・!借りるからごめんって言ったじゃん」
「いや・・・服を貸すことではなく・・・服の種類の話で・・・」
「なんだよっ
 じゃパジャマの方が都合良いのかよ?」


  パジャマか・・・。
 それはそれで可愛・・・・って違うだろ俺!!


「目の毒だと・・・言ってるんだ・・・っ」


  歩く度に見え隠れする付け根使い太股と、
 長い裾をまくしあげ、きちきちと動く細い腕。
 白い胸元に見える赤い鬱血はまるで花のようだった。

  襲いたくなるほど、反則的な可愛さに、先程から眩暈が止まらない。


「なんだよ、俺が着ちゃキモいとか?」
「・・・・はぁ。
 忍、お前分かってないだろ。
 キモイとかじゃない。むしろ逆だ・・・」


  忍はきょとんとした。「逆?」と首を傾げる。本人は全く、
理解出来ていないようだった。


  付き合う前から、忍には恋愛経験がないことは知っていた。
  だから多分、コイツのそう言う部分は、初で鈍感なのだろう。
  俺はこの天然さに、感動すべきなのだろうか。


「言ってることが分からん」


  眉を顰めぶすぅと困った顔に、宮城は思わず顔を背けた。
  ばくばくと心臓が五月蠅く脈打つ。


  コイツは何度俺を憤死させる気だテロリストめ・・・っ


  宮城の忍耐力も弱まり、半ば自棄になって一気に自分の
心中をまくし立てた。


「だーかーら!好きな奴が自分のぶかぶかなワイシャツ着て、
 料理作ってくれて、きわどいところまで体のライン見せら
 れて、きょとんとされたり、拗ねられてして、喜ばない男はいねぇだろが!!
 それぐらい分かれ!!しかもお前、素でやってんだろッ
 心臓に悪いんだよ!天然テロリストめ!!!!!」


  宮城の爆発に、初め聞くだけしか出来なかった忍だったが、
徐々に宮城の言葉を噛み砕いていく。やがて話の内容を自分
なりに理解出来たのか、かぁーと首から耳の中まで真っ赤にした。
恥ずかしさのあまりか、今度はわなわなと震え始めた。


「馬鹿なこと言ってねぇでさっさと食え!冷めんぞ!」


  この話は終わり!!とばかりにお茶碗を手渡し、忍も自ら
の席につき、箸を動かした。


 ・・・大人げねー・・・。


 言うつもりもなかったというのに、己の忍耐力のなさが情けない。
  宮城は落ち込んだ。
 気を取り直し、箸を動かす。ウィンナーとキャベツの炒め
ものはまずまずだったが、目玉焼きの裏側は飽きれるほど真っ黒だった。
  黒い所は削り、口に運ぶ。正直、卵の味より、炭の味の方が強かった。

  今度は火の加減を教えようと宮城が考えていると、味噌汁を
持った忍がぼんやりとしていた。ぽつりと囁かれたひとり言は、
唇の動きを見て初めて分かるほど、本当に小さな声だった。


「好きな奴・・・か」


  それは先程宮城が言った台詞だった。
  忍は大切そうにその言葉を反芻すると、宮城に見られている
ことにも気付かず、くすり・・・と幸せそうに笑うのだった。
 

  バタン!と宮城は机に伏すしかなかった。


「〜〜〜〜っ
 そこかよ・・・忍チン・・・・っ」

 
 反応しかけている自身を、必死に押さえた。


「宮城!どうしたんだよッ」
「うるせー!お前に・・・お前に何が分かるって言うんだぁぁ!!!」
「ごめん、そんなに飯不味かった・・・?」


 弱い声色に、ちらりと忍の顔を確認すると、不安そうな表情
の忍と視線がぶつかる。
 強気な態度の中に隠れた、自分を心配する気持ちに、宮城は
気付いてしまったものだから、余計にいとしくて。


「・・・お前が・・・馬鹿可愛過ぎんだよ・・・ッ
 あとできっちり責任取りやがれってんだ」
「責任?なんの話だよ、今日の宮城変だぞ!!」
「うるせぇぇ!
 いくら教育者だからって、中身は立派な男なんだよ!!」


  感動すべきほど天然テロリストに、今日も完敗。



























< 待ってたよ >




  宮城と、喧嘩した。


「宮城の馬鹿野郎!」
「年上にむかって、その口の効き方はなんだ。
 そんなんで世間に通用すると思」
「また世間かよっもう聞き飽きたんたんだよ!」


  原因は思い出せないほど些細で小さな事だったはずなのに、雪だるま方式で大
きな喧嘩に発展してしまった。


「ふざけんなッ俺は絶対ぇ謝んねぇから!」
「おいっ待て忍!」


  我が強すぎるわけではない。
 いつもいつだって、宮城のことが気になって仕方ないくせに、強がりな性格で
は素直になれない。

  書斎のドアを勢いよく締めた。
 興奮したせいか、呼吸が乱れている。怒鳴ったせいで、頭がくらくらする。
 頭を抑え、苛立ちをなんとか落ち着かせようとした。
 
 忍はそこではっと我に返った。

 形、雰囲気がどんなに似ていても、ここは忍の家の真隣、つまり宮城の家
だったのだ。
 見慣れぬ本達に囲まれ、睨まれているような錯覚にさえ陥る。


  〜〜〜っ!!
  馬鹿は俺だっつうの・・・っ


  忍は自らの戒めのように、ドアに拳をバン!!とぶつけた。
 押されるような痛みの後に、じんわりと血の流れにそって痛みが浸透していく。

 何をやっているんだろ。 
 ようやく、宮城が心を開き始めてくれたというのに・・・。
 自分は一体、何をやっているのだろう。

  結局、付き合う前となんら変わらない、ぶつかり合いの日々。
  好きで好きで、悔しいくらい大好きな人なのに。
 強がり性格と、好き過ぎるあまり、空回り。二人の波長は噛
み合わず、正面衝突ばかりだった。


 俺を、知って欲しい。
 もっと、好きになって欲しい。
 誰より何より、一番に想って欲しい。


「・・・くそっ」


  再び、壁を強く何度も殴打する。
 殴っても度殴っても、痛みは増すが、罰にはならない。

  忍は崩れ落ちるように書斎の壁のそばにうずくまった。
  暗闇の中で、忍はもやもやした気持ちを膝ごと抱えていた。


  分かってる、
 求めるばかりじゃいけないことぐらい。
  でも冷静で無駄のない大人になんてなれなくて。
 うまくいかなくて、もどかしくて、後悔ばかり・・・。

 悔しさのあまり、涙が滲むのを、腕を噛みながら必死に堪えた。


「忍・・・」


  ふと聞こえた宮城の声に、急いで目元を拭った。
 見られていないのは分かっていても、涙が流す自分に、
宮城が同情するのだけは、もっとも許せなかったから。


「・・・なんだよ」


 泣いていたことを悟られぬよう、まだ怒っているふりをした。
 何を言えば良いのか分からず、忍は無言になってしまう。

 先に言葉を発したのは、宮城だった。
  

「悪かった」


  予想だにしていない言葉に、忍は耳を疑った。


  今・・・なんて?
 宮城が俺に・・・謝った・・・?


「言い過ぎた、反省してる・・・・」


  申し訳ないと素直に謝罪の言葉を述べる宮城。
 今すぐドアを開けて飛びつきたい衝動をぐっと我慢する。


  本当はもう怒ってなんていなかったけれど・・・正直まだ悔しい。
 自分ばかりが好きで好きで仕方ないようで。
 『恋愛は先に好きになった方が負け』と、何かのドラマで言っていた
気がする。
 では、俺は・・・敗者なのだろうか。


  ドアの前に立ち、宮城の存在を確認するように指を這わせた。
 一枚隔てたドアの向こうに、大好きな人がいるのだと思うだけで、
胸がどきどきした。
  宮城の高い背を想像して、ちょうど唇がある隔たり部分に指を当てる。
  そして静かに、唇を寄せた。


「開けるぞ?」

 
 ドアが静かに開いていく。


 鍵を閉めないのは、鍵が壊れているからじゃない。
 いつだって、その気になれば開けられるようにしているだけ。


  宮城の心のドアを開けたみたいに、
 俺のドアもアンタの意志で開けて欲しくて、ずっと・・・待っていたんだ。


「宮城・・・・」


 ようやく、会えた。 


「好きだ」


 抱き締め合った瞬間、ぽろりと涙が零れていった。

 

























< 可愛いひと >




 小さなアパートで、二人暮らし。ここは俺の心の中。アパートの部屋
の広さは、自分の心の広さと相応していた。俺はそこで先生と二人で暮
らしていた。

 先生は俺に何かあると、すぐに気付いてくれた。
 古典の話をする時の先生の目はきらきらしていて。
 大好きな本に触れる時、本当に大切そうに扱うからせつなくて。
 付き合う前、あぁ・・・この人に愛されたら、俺も、そんな風に大切
されたいと常々思っていた。

 先生が笑うと、部屋に花が咲く。
 先生が怒ると、部屋が揺れる。

 先生が泣くと、部屋に冷たい雨が降る。

 ある日、水浸しの部屋で、先生は顔を覆いながら言った。
 自分は不治の病におかされてしまったのだ、と。


「宮城・・・ごめんね」


 やめろよ。
 何も悪くないのに、なんで先生が謝るんだよッ

 
 部屋がぐにゃぐにゃと変形し、電気が消える。
 暗闇の中、俺は自分がどこにいるのかさえ、分からなくなった。

 ただ唯一見えたのは、
 白い、花びらみたいな・・・雪。


「好きになってくれてありがとう」


 冬の海は冷たくて、穏やかなのに全てを巻き込んではひい
ていく姿に、俺は惹かれつつも少し怯えていた。

 車椅子を押す手を強く握る。
 無力な自分が、そこにいた。
 やがて消えゆくぬくもりを、俺は確かに確信した。
 だから決心した、どんなにつらくとも、絶対目を逸らす事
は絶対よそう、と。

 大切な人の灯火の一瞬の揺らめきも、目を背けることなく、
俺はただただ見つめたことしか出来なかった。

 がらんとした部屋。
 この部屋はもう二度と、花が咲くも雨も降ることのないだろう。

 二人掛けのソファが広すぎて淋しくて。
 俺は寝転びながら、頬を伝う涙の雫を拭うことも出来なかった。


 置いていかれるぐらいなら、
 いっそ、
 俺も連れて行って欲しかった。


 何度心の部屋を壊してしまおうかと考えた。
 だが、壊すには惜しいほど、ここにはかけがいのない思い出
で溢れていた。
 俺は壊すことも出て行くことも出来ず、内側から鍵を掛けた。


 もう二度と、誰かと住もうなんて考えられないように。
 そうすれば、
 かつて先生と共に過ごしたこの空間は永遠だと信じていた。


 時が流れるにつれ、
 部屋は大きくなり、アパートからマンションほどの大きさに広がった。
 歳を重ねていくうちに、誰かが何度か外側からノックする
音が聞こえた。
 しかし鍵が掛かっていると知ると、だんだんノックする力
は弱まり、ついには何も聞こえなくなった。


 それで良い。
 ここに誰かを入れるつもりはない。
 このまま、あの時見た雪みたいに、冷たい結晶の世界の中で、
俺はひとりで幸せに暮らしたい。
 二人掛けのソファに寝転がりながら、余ったスペースに古書
を並べれば、淋しさが少しは紛れる。


 そんな宮城を起こしたのは、ノックより遙かに五月蝿い爆音。
 ドアを壊そうと、ダイナマイトが爆破する音が聞こえた。


「好きなんだけど」
「・・・・・・・・はい?」


 爆破されても、ドアは健在だったが、テロリストは諦めるこ
となく、ドアを壊そうとチェーンソーやらドリルやらで壊そう
と、必死になっていた。
 ソファから転げ落ち、驚く宮城に、ドア越しから響く騒音と
共に、声は続く。


「運命なんだ」
「はい?」


 ノックなんて可愛いものじゃない。もっと男らしくて、大雑
把で乱暴な音、鍵の掛かったドアをわざわざ壊そうとする変わ
り者がいた。

 相手がトレジャーハンターなら、ここに宝はないと言って追
い返すことも出来たのに、やってきたのは


「責任を取って欲しい」


 美しきテロリスト。


 そいつは、人の部屋の前で運命の出会いだの、好きになって
欲しいだのと喚き散らす。迷惑極まりない、疎ましい存在。

 俺の中の危険警報が喧しく鳴る。
 コイツに近づいてはいけない。
 体中で、彼の存在を拒絶した。

 しかしそいつは会う度会う度、逃げる俺を捕まえては、
真正面から立ち向かってきた。

 コイツが現れてから、イライラが止まらない。


 俺が何をした。


 俺はただ、この部屋で眠っていたいだけだ。お前みたいに、
誰かに迷惑をかけているわけでもない。


 俺が何をしたっていうんだ・・・っ


「俺はアンタが死んだって、好きなんだよ!!」


 それまで頑なだったドアに、小さな亀裂が走った。
 爆弾でも壊れなかったドアが、忍のそのたった一言で亀裂
が入ったのだ。

 世界が一瞬、明るくなるのを感じた。
 
 
「何だって、そこまで俺にこだわる」


 他人を拒絶して、
 過去に囚われて、
 でも弱い部分を認めたくてなくて、見え見ぬふり。
 ひたすらに己を殺して、粋がってきたこんな俺を・・・。


「みや・・ぎ・・ッ・・・い・・・痛いっ」


 忍の泣き顔に、胸が痛む。
 俺は一体こんな所で何をしているんだろう。
 

 ムカついたのだ。
 イライラした。
 ガキが一人前に「抱け」だと?笑わせんな。

 ゛光 ゛なんていらない。
 ゛光 ゛は、思い出を劣化させる原因になるから。
 
 俺はこのまま、暗い部屋の中で一生、生きていくものだと思っていた。

 なのに、どうしてだろう。
 忍の泣き声顔が、悲鳴が、謝罪の言葉が頭から離れない。


『いきなりオーストラリアに戻るなんて、君も面食らっただろうに』


 部屋が、静かに揺れた。

 気が付けば、俺は追いかけていた。
 この歳で息を切らすことは、なかなかなかった。久しぶり過ぎて、
呼吸の仕方を忘れてしまうほど。


 胸が・・・痛い。
 

「オイコラ、クソガキ」


 驚いて赤くなる忍の顔を見た時、 
 薄々感じていた気持ちが、確信へと変わる。


「運命なんて信じない。
 ただ、俺はお前を好きになってみようと思う」
「・・・・・・っ」


 あぁ・・・なんて顔をしやがる。


 ぼろぼろと流れる涙は温かく、真っ赤になった顔は涙のせいだけ
ではないだろう。
 俺の迷いなど、くだらないことに思えた。忍の泣き顔を見た途端、
吹っ飛んでしまった。

 いとおしい気持ちで溢れていく。


「遅せぇ・・・んだよ・・・!む・・・迎え・・・に、来るのッ」


 咽ぶ泣く頭をぽんぽんと叩きながら、気丈な言葉と裏腹に震えた
背中が可愛くて、車の中で肩ごと自分に引き寄せた。
 熱い体はそれだけでびくりと反応し、恥ずかしそうに、シャツを
握り返してくる。


 先生、俺はあなたを忘れないことが、
 あなたを愛することだと思っていました。

 俺は、あなたを忘れない。

 だって、あなたを愛していたのは真実だから。例え今は過去に
なっても、俺はあなたを世界一愛していた。あなたなしの世界に
なんて、興味がなかった。

 だから、俺はあなたのいない世界ではなく、小さくとも居心地
に良いあの部屋に閉じ篭っていたんだ。


 先生、ごめんなさい、この部屋を残して出て行くことを、許して下さい。


 優柔不断とあなたは怒るかもしれないけれど、 ここを消すには、
あなたを好きになり過ぎました。


 どうか誰もいない部屋になることを、許して。


「帰るぞ」


 俺は内側の鍵を開けた。
 そこに待っていたのは、
 予想通りの、まだまだ幼くも直向きで、誰より可愛いひと。


「・・・うん・・・っ」


 車の窓から入ってくる穏やかな風に吹かれ、
 心の中で、そっと手を繋ぎながら『家』へ向かうのだった。