「あなたが好きです」


 一瞬、空の太陽が雲に隠れた気がした。


 窓は小さく遠いのに、微かな影にさえ敏感になってしまったのは、
草間の影がやけに大きく感じたからだ。
 講師室は暗くなり、二人は二人だけの世界に閉じこまれる。
 上條は下唇を口に含み、唾を飲み込む。
 空気がやけに乾いている。
 草間はその闇に乗じ、愛しいひとの唇に己の唇を近付けた。
 拒むことが出来る時間を与え、ゆっくりと、キスを深めていく。
 上條は抵抗どころか、何が起こったのかわからず、草間の言いようにされた。


「ん・・・っぁっ」


 自分でも驚くほど甘い声が、唇の間から漏れる。
 そこでようやく思考を取り戻すと、迫ってくる広い胸をドンドン!と叩いた。
 名残惜しそうに、唇が離れていく。 


「・・・おま・・・っ」


 どさくさに紛れて、なんてこと・・・!!


 しかし離れがたかった草間は、額と額がくっつけ、上條を離さなかった。


「上條先生」


 火照った声を聞き、草間の濡れた唇に自然と目がいってしまう。
 キスをした後なんだと、実感した。
 かち合う草間の瞳を見て、上條はどきりとする。
 欲情に染まった黒い瞳に自分が映っている。
 いつも見てきた穏やかさとは正反対のそれに、恐怖より緊張が勝っていた。
 紅潮する頬を押さえられ、隠すことも出来ない上條は、草間の腕の中で抵抗した。
 手を払い、これ以上顔を見られてなく背を向けると、すぐさま口を腕でゴシゴシと拭く。
 赤くなってもかまわない、優しい草間の感触が消えてくれない。
 いけないことと知りながら、起きてしまった過ちに胸が騒いで仕方がなかった。


 何考えてんだ俺・・・!
 相手は教え子だぞ?!しかも年下、高校生!!


 あああああ!!!と自己嫌悪の嵐に泣きそうになっていると、大きな腕に包み込まれる。


「もう一度言います」


 あぁ・・・もうやめてくれ。


 何もかも捨てて、ここに居てください。
 腕の中でそう誘惑される。


「好きです」


 乾いた心を潤したのは間違いなくこの青年。
 どんなに暑くとも、真っ直ぐに伸びるひまわりのような青年、草間野分。


 これ以上、乱さないでくれ。


「好きです・・・」


 告白と同時に強まる抱擁に、上條はなす術もない。
 嫌ならば拒絶することも、逃げることも出来たはずなのに。
 そうしなかったのは、他ならぬ選択の末。


「先生・・・好きなんです・・・っ」


 上條は認めるのが怖かった。
 もう既に、草間野分のことで胸がいっぱいであることを・・・。


 認めたくない。
 今までずっと、秋彦が好きだった。
 好きだった・・・はずなのに、どうして・・・っ
 

 どうして、眼前の人の顔を直視出来ないのだろう。


「好き・・・上條先生がずっと好きでした」


 そう繰り返す草間の言葉が優しく頭の中を溶かしていく。
 片恋の日々はつらく、棘々しい心の棘が根元から溶けていった。
 人から愛される感覚に、上條は泣きそうになる。
 コイツも俺と同じ・・・片想いだったんだ。
 優しい声色の中に、隠された切なさを見つけてしまった。
 悲しい片想いをしていたのは、秋彦や自分だけではないことを、知ってしまった。


「お前・・・分かってんだろうな・・・?」
「何がですか?」
「その・・・あれだ。
 い・・・色々だよ・・・!
 俺はお前の教員で、お前は学校の生徒で・・・。
 お前よりいくつも年上で・・・っ
 可愛げないし、その・・・男・・・だし・・・!」
「はぁ・・・そうですね」
「そうですねって!」


 コイツっ
 頭良いくせに馬鹿なのか・・・!?!


 これからのことを考えると、いつ見切りをつけられても不思議でないほど、
自分と彼との間には問題が山積みだった。
 この山のような問題を、眼前にいる年下の彼はどう考えているのだろ
うかと、正直不安になる。返事によっては、恋人とは認められないだろう。
 そんな上條の心を知っているかのように、草間は真夏に咲く向日葵のよう
に大きな笑みを浮かべた。


「上條先生なら、俺はなんの問題ありませんよ?
 心配しないでください。
 何かあったら、俺があなたを守ります」
「守・・・?!
 年下に守られるほど、俺は落ちぶれちゃいねぇよ!!」


 プライドの高い自分は誰かを守ることはあっても、守られるなんてまっぴらごめんだ。
 ましてや、相手が年下なら尚更、年上の自分が前へ出てやるのが義務だろう。


「でも上條先生、好きな人を守るのは男としての役」
「馬鹿野郎!!それを言ったら俺だってそうだろうが!!」


 そう声を荒げたところで、つい本音を口にしてしまったことに気付く。


 「いっ今のなし!!」

 慌てて前言撤回するも、大好きな者の言葉を草間が聞き逃すわけもない。
 両の手を組み合わせ、「上條先生・・・っ」と感動したように目を輝かせる姿に、
上條は慌てて否定するが、後の祭り。
 嬉しさの衝動で、草間は上條に抱きつくと、そのままソファに押し倒して、
箍が外れたように力いっぱい抱きしめた。


「俺・・・嬉しくて!
 嬉しくて・・・!!
 どうにかなりそうです・・・っ」


 襲われるというより、言葉の通りの意味で押し倒された。
 プライドの高い自分が押し倒されたというのに、嫌悪はなく、まるで大型
犬に懐かれたような感覚だった。 
 包まれるような大きな腕に、安心感さえ沸く。
 コイツもずっと・・・片想いで、不安だったんだろうな・・・。
 だからこそ、今は思いっきり甘やかせてやりたい。
 けれど、自分と彼の立場はあまりにも違い過ぎて、一歩間違えなくても犯罪だ。


 それでも、コイツは俺を好きだと言ってくれたんだなぁ・・・。


「先生は覚えてないかもしれないけど」


 ぽつり、ぽつりとこぼれていく草間の言葉を、上條は穏やかな気持ちで聞いていた。
 無口のはずの彼だが、今日は随分と口が回る。


「数年前、廊下ですれ違った時から気になっていたんです。
 初めて会った時から、ずっと惹かれていたんです」


 草間の言う通り、上條は覚えていなかったが、草間は高校に進学した時か
ら上條を知っていた。

 廊下ですれ違った時は、言葉では言い表せない内なる輝きに目を奪われた。
 図書館で本を読むしなやかな姿にときめき、
 廊下の窓から桜を眺める瞳の美しさに胸が熱くなった。

 職員室で上條を探すも、姿はなく、担任から上條が非常勤の講師であるこ
とと、三年からでないと彼の授業を受けられないことを知った時はショック
でしばらくの間は立ち直れなかったらしい。
 だから、上條の授業を受けられる歳になるまで、草間は上條にふさわしい
人物になるべく、勉学に励んだのだという。
 初めは、何故こんなにも、あの人のことが気になるのか不思議で分からな
かった。


「でも好きだって自覚出来たのは、上條先生が泣いていたあの日からでした」


 あぁ・・・人って、
 こんなに綺麗なんだ・・・。


 草間は不謹慎ながら、上條の泣き顔ですっかり心奪われてしまったのだ。
 上條を助けたあの日から、ひとつの答えを見つけられたおかげで、草間の
心はそれまでに経験したことのないぐらい晴れ晴れとし、上條への恋情を一
層膨らませたのだと言う。


「ってかお前、正直過ぎ・・・っ」


 自分のことを赤裸々に白状する本人より、聞かされている上條の方が何倍
も恥ずかしかった。


「嫌でした?」
「っていうか・・・反応に困る・・・っ」


 見上げてくる瞳の真っ直ぐさは今でも慣れない。
 「ごめんなさい」と言葉が出るものの、その口元は緩く弧を描いていて、
上條はさらに頬を赤くさせた。


「すぐなんて、我侭は言いません。
 でも、俺を好きになって下さい。必ず幸せにしますから」
「っうか・・・させないから」
「え?」
「俺は・・・嫌いな奴にここまで触らせないから」


 その言葉を聞いた途端、草間の瞳は細められ、最上級の笑みが浮かべられた。
 上條も、自分が何を言ったか自覚していた。
 ゆっくりと重ねられる唇に抵抗感は全くなく、早く重なりたいとすら思う。
 シャツのボタンを外され、エアコンのきいた部屋で露になされた胸。
 その胸の先端を熱い舌が触れてくる。


「・・・ぅ・・・ぁ・・・っ」


 なんとも言えない感覚に、上條の体がびくりっとする。
 ソファが男二人分の体重の移動に軋み、スプリングの音が草間の動きを如実に伝える。
 右の突起を舐めながら、左の突起を指で弄られ、上條は身じろぐ。


「・・・んぁ・・・あッ痛・・・っ」


 さりさりとした歯の感触、指で押されたり摘まれる感触は、痛いのか気持ちいいのか分からない。
 「ごめんなさい」と濡れた唇で、草間が囁く。
 ただ草間に愛撫されていると思うだけで、腰の奥がどうしようもなく疼いてしまう。
 突起から離れた舌は胸の間を通り、腹の窪みに達すると、そこをしつこく嘗め回した。


「ん・・・あっぁっあ・・・っ」


 気付けばズボンのフロンを外され、下着も剥がされていた。
 キスや胸をいじられただけで、そこは起立していて。
 恥ずかしさに、目を瞑った。
 現れた己の下部に浅ましさを実感する。
 だが、何を思ったのか、草間は迷いなくそこに顔を近づけてくる。
 上條は草間がこれからしようとしていることを予測し、顔を青くし、慌てて止めた。
 

「そんなことしなくて良いから!」
「俺、先生の全部に触りたいんです」
「き・・・汚い・・・っ」
「いいえ、上條先生なら俺全然平気です。
 だから、させてください」
「そうじゃない!!
 こんな所で・・・駄目だって言っ・・・あ!?」


 上條の制止も聞かず、草間の柔らかい舌が上條のそこを下から上へ撫でた。
 はぁ・・・と何気なく出たため息はとても熱かった。
 

「んやっ」


 今度はそれを口内で愛撫し始めると、上條はいよいよ居た堪れない気持ちになる。
 何度も頭振り、理性を保とうとしたが、草間は上條を快感のふちへと追い詰めてくる。  
 愛しさの波に攫われてしまいそうだ。
 いつの間にか、上條は草間の頭を抱きしめ、「草間・・・っ」と切なげに名を呼んでいた。


「名前、呼んで下さい」
「だから、草間って・・・」
「下の名前でお願いします」
「・・・野分・・・」
「あぁ・・・覚えていてくれてたんですね、嬉しい・・・」


 忘れるはずがない。

 学生名簿を見た時の衝撃は、今でも忘れられないのだから。
 野分とは、野の草をかき分ける風の意。
 荒々しい風の名を持つ青年の気性の穏やかさのギャップには、驚ろかされたものだ。
 しかし今ならはっきり分かる。
 上條を見つめる野分の瞳の奥、荒々しい欲情の風が吹いていることを上條は知ることになった。


 風に攫われる。
 優しく髪を乱される。
 熱い腕に連れていかれる。


 
「ぅぁッあッ・・・のわ・・・きっ野分・・・!」


 暗くて冷たい独りよがりなあそこから、
 穏やかで熱い風に乗って、外へ連れて出してくれたひとの名をひたすら呼んだ。
 呼ぶ度に満たされていく初めての感覚に、上條の瞳から涙がこぼれていった。








「先生!」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「先生!
 ごめんなさい、俺が悪かったです、つい嬉しくて・・・。
 すみません、許してくださいっ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「上條先生・・・っ」
「だから嫌だって言ったんだ!」
「・・・・・・はい」


 場所を弁えろと本気で怒る上條の横を、項垂れた草間がとぼとぼと歩く。
 何の準備もなく、また衝動のみで行った行為は満足げな草間とは反対に、
上條の体に大きな負担を残して終わった。
 学校の校門を過ぎかなり歩いた所で、しょんぼりする大きな体に上條の
怒りが少し和らぐ。
 反省しているようだし、そろそろ許してやっても良いかな。なんて思ってしまう。
 まったく、俺も甘くなったもんだ。
 腹の虫は収まらないが、口を利いてやるぐらいしてもしても良い気がした。
 

「・・・俺こっちだから」
「あの、上條先生・・・」


 神妙な面持ちの草間の瞳には、講師室で見た荒々しさはすっかり消えていた。


「今日は・・・本当にすみませんでした」
「・・・以後慎むように」


 『慎む』という行為事態の否定をしてこないことに、上條の機嫌の直りを
感じた草間は嬉しそうに笑う。
 分かれ道に差し掛かり、上條は恥ずかしさもあり「じゃ」っとそっけなく
別れようとすると、少し淋しげに草間は「はい」と言った。


「では上條先生、また」
「・・・おう」


 帰ろうとする大きな背中。
 影が伸び、上條の足にもう少しというところまで伸びていた。


「・・・・・・・・・・」


 上條は一歩踏み出しその影を踏みつけると、「あのさ!」と声を上げていた。


「はい?」
「呼び方・・・変えね?」


 どうでもいいことだとは思ったが、恋人に「先生」と呼ばれる度、背徳感
を感じるのは居心地悪い。
 自分も、なるべく野分と呼ぶと言うと、草間野分はぱぁと顔を明るくした。
 名前ひとつでここまで喜べるなんて、かなり単純な奴だ。
 高校生相手に、可愛い奴なんて思ってしまった。


「じゃ俺、『ヒロさん』って呼びたいです!」
「随分即決だな・・・」


 さてはお前、実は前から考えてたなと軽い気持ちでツッコむと、野分の満
面の笑みで返えされる。


「はい!そう呼びたいなって、前々から思ってたんですっ」

 
 思いもよらぬ返答に、「な!?」と上條は赤面しながら口をぱくぱくさせた。
 そんなこと考えてる暇があるなら、ナ行変格活用動詞でも覚えてろ!!
 そう叫びたい気持ちをぐっと抑え、手はきちんと、野分の脳天を破壊せんと
叩きあげていた。
 野分は頭を擦りながら、駆けて去ろうとする弘樹を追いかける。
 弘樹は追いかけられ、後ろを確認しながら走り出す。

 やがて捕まえられる腕に期待しながら、遅い青が来たものだと感じた。

 ほんわか和めれば良かったものの、すぐさま己のそんな乙女な考えに気付く
と、気持ちが悪いと男の自分に落胆した。
 それでも、野分の笑顔を見ると、どんな疲れも吹っ飛んでしまうのだから不思議。

 太陽はまだ高かったが、もう夕方近い。
 午前中の授業が終わってから何も食べてない。というか食べれなかった。
 今日はまだコーヒーとサラダ以外口にしていないのだから、腹も減る。
 
 思いついた提案を、
 口にする恥ずかしかったが今なら言える気がした。


「夕飯・・・うちで食う?」
「・・・・・はい!!」


 夏どころか、二人の春はまだ来たばかりだった。