窓から差し込む熱線を避けながら、上條は廊下をかつかつと歩いた。 横切る教室は見るまでもなく誰もいない。 そう、今は八月。 夏真っ盛りの時期だが、同時に夏休みでもある。 夏休みだというのに、上條は学校に来ていた。 それもこれも補習授業のためだ。 上條が受け持つ生徒は高校三年。 来年には大学受験を控えている。 そのため、夏休みという休みの期間に自由参加で補習授業を設けたのだ。 暑い中、人の少ない学校に来なければいけないのは生徒も教師も関係ない。 朝シャワーを浴びたばかりだというのに、灼熱の太陽に当てながら学校に 到着した時には噴出す汗でシャツがくっつき、既に気持ち悪かった。 経費削減のため、エアコンのついていない教室。 疲労と億劫さを感じながら、授業でやったところをもう一度読み上げるのは、 本当に腹立たしい。 生徒達もどこか上の空、同情なんてしない。自分だって早く終わって欲しい。 受験対策用に作ったプリントをやらせている間、椅子に座る。 背もたれと背中の間のシャツは、びっしょり濡れていた。 ネクタイを緩めできた首元の隙間から、手で風を送る。 だがもちろん、扇風機のような爽やかな風が届くわけもなく、汗は背中や 頬を流れるばかり。 やがて授業終了の鐘が鳴る。 「今日はここまで。 配ったプリントの復習しておけ、明日テストするぞ」 ぐたりとしていた生徒達も起き上がり、えー!!と叫ぶ。 分かりきった反応に興味もなく、上條は教室をさっさと後にした。 後ろから聞こえる批難の声は、ドアを閉めても廊下まで聞こえてきた。 夏を到来を喜々するような蝉の声。 日光を跳ね返すプールがまぶしい。けれどその涼しげな様子に、思わず足 を止めてしまう。 ゆらゆら揺れる水面が綺麗だった。 「上條先生」 廊下をぱたぱたと歩いてきたのは背の高い生徒。 しっかりとした両肩、上條よりやや短い黒髪。この黒さでは熱を吸収して、 頭皮が熱いんじゃないかとくだらないことを考えてしまう。 三年二組、草間野分。 先程まで古文の授業をしていた生徒の一人だ。 孤児院出身の彼に身寄りはなく、学費はすべて彼が稼いだバイト代で支払 われていた。 授業態度も真面目で、成績も常に五位以内をキープしており、かなり優秀。 社交的で、教師の間でも評判良く、上條とも時々話をするのだが・・・。 正直、草間のあの穏やかな性格で、この先の厳しい受験を乗り切れるか不安だった。 「どうした、わからないところでもあったのか?」 「いえ・・・あの・・・ちょっとお時間を貰いたいのですが」 今日はこの後古本屋に寄る予定だったが、それは明日の午後でも十分間に合う。 立ち話も疲れるので、上條は講師室に草間を招いた。 教員室より狭い講師室では、草間の体がやけに大きく感じた。 ソファに座らせ、お茶を淹れようとすると、「俺がやります」と草間が名乗り出た。 断る理由もないので、申し出を素直に受け取ることにする。 慣れた手つき草間はお茶を淹れた。 もしかしたら、他の講師にもこうやってお茶を淹れたことがあるのもしれない。 講師室での出勤は自分以外いないので、がらんとした部屋にお茶を淹れる音が やけに大きく響いた。 草間の後姿を見つめながら、コイツ本当にデカいなと改めて思った。 デスクに置いておいた団扇で仰ぎながら、甲斐甲斐しく動く背中を可愛いと 思う自分は、暑さにやられてしまったのかもしれない。 「はい、どうぞ」 お茶を受け取る。 草間は客室用の湯のみを使っているというのに、上條にはマグカップが手渡される。 そのカップは、講師室に置いてある上條専用のマグカップであり、使うのは 道理だったが、それを草間に教えた覚えはない。 まぁどうでもいいことか・・・と上條は緑茶を啜る。 「んで、話って?」 湯飲みに口をつけようとしていた手を止め、しばらく押し黙ると、意を決し たように、「実は」と草間は口を開いた。 「先生がこの夏で学校辞めると聞いたんですが、本当ですか?」 ぶっ!! 予想外の言葉に、思わず上條は口に含んでいたものを噴出す。 食堂ではない場所にお茶が入ってしまったため、咳をしながら口元を拭う。 草間は草間まで、「大丈夫ですか?!俺を置いて死なないで下さい!!」と わけの分からないことを言っていた。 それは聞き流すことにして、自分が学校を辞める事実を何故知っているのか が気になった。 まだ生徒には、正式に発表されていないはずだ。 だが悲しいことに、上條にはひとり、心当たりのある人物がいた。 講師の自分とは異なり、現代国語を担当する学校専属の教師。 端麗な顔つきで、女性生徒からも人気があり、教師間でも隠れたファンがいると聞く。 上條とは幼馴染でもあるその男の名は、宇 「宇佐見先生です」 やっぱりか!! あんにゃろォォォォォ・・・・!!! 手の持ったマグカップからお茶が毀れるのもおかまいなしで、上條の手が 怒りのあまり震え出す。 草間の真剣な顔が視界に入った。 「俺・・・信じられなくて、直接先生から話を聞きたいと思ってたんです」 その真っ直ぐな眼差しに耐えられず、上條は視線をそらした。 草間の真っ直ぐ過ぎる視線に、上條はいつも戸惑っていた。 そしてふわりと笑いながら、「上條先生」と呼ばれた日には、恋をしたよ うに胸の中心が熱くなってしまう時があった。 しかし、今の草間にはそんな春のようなのどかさはなく、上條の心を見透 かすように冷たい鋭ささえ感じた。 「本当・・・なんですね・・・?」 コイツに嘘や誤魔化しは通用しない。 上條は深呼吸をしてから、真剣に答えた。 「・・・・・本当だ」 何故、と訊ねる草間をひと睨みする。 プライベートな事だ。 仲が良いとは言っても、生徒と教師の関係の者に自分のプライベートを 話す義理はないことを、草間は知っていて好奇心で訊いているのだろうか。 そうだとしたら、かなり性質が悪い。 上條は少し草間という人間に失望した。 汗で滑る眼鏡をくいっと指で上げ、「答える気はない」とはっきり告げる。 「話はそれだけか?なら帰ってくれ」 「怒りましたか?」 そりゃ怒りもするだろッ 気に入っていた生徒が、無神経にも興味本位でプライベートを訊かれれば 誰だって腹ぐらい立つ・・・っ 「すみません・・・。 でも俺、先生にどうしても伝えたいことがあるんです」 「あァ?なんだよ。今言えばいいじゃねぇか」 「駄目なんです・・・っ」 「なんで?」 「俺には・・・資格が・・・ない・・・のにっ」 そう告白する野分は「今の俺じゃ・・・駄目なんです」と、今にも泣き そうな顔をしていた。 その切ない表情に、上條の胸が震えた。 この痛みはなんなのだろう。 「だからせめて来年・・・俺が大学受かった時に言おうと思っていたんです。 でも先生は今年の夏でいなくなるって聞いて・・・」 俺・・・っ どうすればいいんですか・・・っ 腕で顔を覆い、草間は大きな体を小さく丸めた。 どんなに体は成長していても、彼の心はまだ未熟な高校生であること を、上條は忘れていた。 友達も多く、悪い噂ひとつ立たない優しく優秀な生徒。 しかしその大きな肩の向こうには、何か大きな不安や悩みを抱えてき たのかもしれない。 肩を震わせ、何かに耐える姿に戸惑う。 上條の目には、生徒というよりも、大きくて弱いひとりの人間としての 草間野分は映し出されていた。 草間野分という人物を意識し始めたのは、夏が訪れる少し前のこと。 秋彦の家を飛び出した後すぐのことだった。 ずっとずっと片想いしていた秋彦に、俺は片想いをしていた。 アイツの一途さは、俺がよく知っている。 弟命の想い人の弟の面倒を見るために、秋彦は教師になったのだ。 上條は元々古文の仕事に就きたいと思っていたので、教師になった。 そこへ、例の弟が転入することになり、秋彦もこの高校に就職を決 めたというわけだ。 他人が聞いたら、愚かだと嗤うだろうな。 秋彦は酒の席で悲しそうに笑った。 俺は嗤わない、誰が嗤うものか。 想い人の役に少しでも立ちたい、そう思うことが愚かだとは決して 思わないから。 この男の届くことのない純粋な想いに泣くことはあっても、蔑んだ りするはずがない。 だって、痛いほど、その気持ちが分かるから。 そんな痛い気持ちごと、俺はお前が―――――。 『俺を、タカヒロだと思えばいいじゃねぇか』 どうしてこんな時まで素直になれないのだろう。 どうしても、「好き」の二文字が言えない。 秋彦の白い純情とは異なる、高飛車な純情が俺を邪魔する。 タカヒロを演じても、俺は俺。 なぁ気付けよ。 俺は、俺じゃない男を愛していても、お前が誰より好きなんだよ。 『お前の好きな奴を、想像させてやるよ』 その日、上條は秋彦と体を重ねた。 掠れ声が「タカヒロ」を求める。 上條はひたすら声を殺して、タカヒロを演じ続けた。 互いに片想い、片方の恋心なら、 半分ずつの二人でひとつになれば良いじゃないかと。 そんなことを考えたら、己の甘さに透明な涙が出た。 すべてが終わり、シャワーも浴びず、眠る秋彦を置いて外へ出た。 人にぶつかりながらも、夜の街を通り過ぎていく。 誰かもいない所。 誰も手の届かない所に行きたかった。 そんな場所、あるわけないと知っていても、足が止まらなかったのだ。 このまま、夜の闇に消えてしまいたかった。 それを止めたのは、秋彦に似た大きな手。 『危ない・・・!』 手に身を引かれ、倒れこむように後ろへ下がる。 今上條が立っていた車道を、クラクションを鳴らしながら車が通っていった。 もしもこの手があと少しでも遅かったなら、自分は今頃この世にはい なかったかもしれない。 触れ合う体温に振り向けば、工事現場のバイトをしていた青年だった。 その顔には見覚えがあった。 先生、ここを教えてください。 そういつも笑顔で訊いてくる感じの良い生徒がいたっけな。 『先生、泣いているんですか?』 まるで学校の時のように質問してくる草間は本当に素直な人間なんだと、 苦笑した覚えがあった。 その頃から、俺は草間の存在が少しづつ、気になり始めていった。 「草間・・・・」 彼が泣いているのだと思うと、胸が熱い。 彼が不安でいるのだと思うと、自分もつらい。 彼が震えているのだと思うと・・・・・・・。 上條は自分よりたくましい肩を抱きしめた。 大きいと思っていた肩は、思いのほかすっぽりと上條の腕に収まる。 安心させようと、頭を軽く触ると、腕の中の肩がビクン!!と飛んだ。 「!!」 肩口を押さえられ乱暴に体を剥がされた。 完全なる拒否に、上條は傷付く以前に唖然とした。 呆然とする上條の顔に、呼吸を整えながら草間は冷静さを取り戻していく。 ごめんなさい・・・。 痛いくらい強く握られた肩から、大きな手が離れていった。 「すみません・・・怯えさせる気はなかったんです・・・っ でも今の俺・・・全然余裕がなくて・・・先生に、何をするか分からないッ」 何って、何だよ。 女でもあるまいし。 それにこれくらいじゃビビらないし、お前を嫌ったりしねぇのに・・・。 しかし、草間自分自身は、上條に冷たく当たってしまったことに、 相当なショックを受けているようだった。 「草間・・・お前が何を言いたいのか、俺は正直分からん。 だが俺がこの学校を出て行く事実は変わらない」 これ以上、秋彦の傍にはいられない。 「我侭だってことは・・・十分分かっています。 こんなこと、言える立場ではないことも、重々承知しています。 でも・・・お願いです」 そんな目で見ないでくれ。 ほだされそうで、怖い。 お前は優しいから、俺を許してしまいそうで、怖い。 「考え直して頂けませんか・・・?」 上條は瞳を閉じた。 「もう・・・決めたことなんだ」 秋彦の傍にはいられない。 アイツに、これ以上迷惑をかけられない。 重荷になるぐらいなら、いっそのこと、自分なりにけじめをつけよう。 長い間考えた末の、決断だった。 今更、心変わりするはずもない。 草間は上條の意思の固さを悟ると、上條をソファに座らせ、膝立ちになる と上條の顔を見上げた。 眉を顰め、壊れ物を扱うように、上條の頬を撫でた。 人に触られることを極端に嫌い、秋彦以外の人間に触られると悪寒が走る 上條だったが、不思議と、草間に触られても何も感じなかった。 眼鏡を外され、何の隔たりもなくなる。 意思の強い瞳が、こちらをじっと見つめていた。 大きくて、熱い草間の手。 ひだまりのような優しさを持った青年。 「上條先生・・・」 上條はその手を振り払えないでいた。 それどころか、もっと触っていて欲しいとさえ思った。 汗が流れるほど暑いというのに、草間と一緒にいると真剣さその表情に 暑さも忘れてしまう。 草間のそのせつなげな表情を無視できる者がいたら、連れてきて欲しい。 上條は完全に、その瞳に落ちていた。 続 |