「ヒロさん、お饅頭食べますか? 看護婦さんから頂いたんです、お土産ですって」 綺麗にラッピングされた中から出てきたのは、ビニールに小分けされた 一口サイズの饅頭。 それを三個差出し、「どうぞ」と野分は言った。 小梅の印が頭にちょんと焼き付けられた茶の色をした饅頭は、見るから に甘くて美味しそうだった。 弘樹は一瞬ちらりとそれを見たがすぐまた本を読み始め、興味無さそう にただ一言「食う」とだけ言った。 そっけない態度に、野分はしょんぼりと肩を落とした。 会話の糸口になればと思ったのに、どうやら饅頭のひとつやふたつでは、 弘樹とは口がきけないようだ。 だがそんなことで、野分はめげない。 「ヒロさん、お茶淹れますが飲みますか?」 お饅頭と渋い緑茶。 この最高の組み合わせなら、弘樹も満足するはず。 少し期待して、眉間の皺が消えたか確認する。 「飲む」 ただ、一言だった。 今度は視線もくれない。眉間の皺も消えていなかった。 「ヒロさん、その本、そんなに面白いですか?」 「だから・・・飲むって言ってるだろ」 会話どころか、怒られてしまった。 話を聞いてもらえていない上に、機嫌を損ねてしまったようだ。 ヒロさん・・・ヒロさん。 ねぇヒロさんっ 忙しいのは分かっています。その本、ヒロさん大好きですよね。 三ヶ月前にも、読んでたでしょう? 繰り返して読むぐらい、好きなんですね。 静かに文章を追う視線、ページをめくる細い指、ゆったりとソファに もたれて魅せる背中から腰にかけてのしなやかなライン。 どれもこれも、襲いたくなるほど可愛い。 こんなに可愛いんだから、悪戯のひとつも、したくなるじゃないですか? ねぇヒロさん・・・ 「・・・・・・・・・ヒロさん、はい、どうぞ食べて下さい」 ビニールを取り払い、饅頭を出すと野分はそれを弘樹の口元に近づけた。 「口、開けて下さい」 読書に没頭するあまり、弘樹は疑うことなく口を開ける。 その中に饅頭を溢さぬよう入れてやると、「サンキュ」と礼を言われた。 だがやはり視線すら送られない。 代わりに、ハムスターのように張りつめた頬が愛らしくもぐもぐと上下 させていた。 「美味しいですか?」 「んー・・・うまい・・・」 「・・・俺に、一口ください」 「まだそっちにあんだろー」 貰ったのは野分なのだから、何故自分の許可がいるのか分からないと、 弘樹は言った。 野分はその言葉を『許可』と解釈し、忙しなく動く弘樹の顎を持ち上 げると、自分の方へ向ける。 「ヒロさん・・・」 くどさを感じ始めた弘樹は、野分の瞳を見て叱った。 「おい・・・っ いい加減にしろよっさっきからお前しつこ」 瞳がはっきりと野分の姿を捉えられたのはほんの一瞬。 その一瞬が終わるとすぐ、視界が野分でいっぱいになったかと思うと、 ねっとりとした感触が口の中に進入してくる。 熱い野分の舌が弘樹の口内を味わった。 先程までの餡子の甘い味は去り、突如襲われた甘い痺れが体中を支配していく。 息をするのもやっとで。 深い深い口付けをされた。 「・・・・んっ ご馳走様、でした」 まるで食事を終えた時のようにさわやかな笑みを浮かべる野分に、 弘樹は怒りと呆れと恥ずかしさですぐには言葉が出てこなかった。 本当は怒鳴って殴ってやりたがったが、行為自体は嫌ではなかった ので怒鳴りはしたが、頭から怒る気にはなれなかった。 「饅頭じゃ・・・ないのかよ!」 「俺、お饅頭を一口下さいとは言ってないです」 しれっと答える歳下の顔に、顔面蹴りをいれたくなった。 か、可愛くない・・・! コイツ・・・ッ かまってやらんからって当て付けのつもりか?!ガキめ!! 「茶!よこせ!!熱湯消毒してやる!!!!!」 「あ、ひどい。」 「うるせぇ!!!罰として風呂掃除と夕飯作りやがれ!!」 「分かりました。 じゃぁお風呂洗ったら、一緒に入ってくれますか?」 バコン!! 今度と言う今度は、流石の弘樹も聞き流せなかった。 「殴られたくなかったらさっさと行け!!」 「ヒロさ・・・ん・・・もう、殴ってます・・・っ」 本気の鉄拳制裁に弘樹の嫌がりようを感じ、調子に乗りすぎ てしまったと野分も反省した。 罪を償うべく、野分は大人しく風呂場に向かった。 リビングを出て行く際、弘樹の様子を盗み見したが、その顔 は未だに怒りに満ち不機嫌そうに自分の淹れたお茶を飲んでいた。 お風呂洗って、ヒロさんの好きな物を作ったら、許してくれ るだろうか・・・。 野分は溜息をつきながら、リビングを後にした。 「ふん!」 見なくとも分かる。しょぼくれる野分の背中に、胸が痛む。 「さーて・・・。本の続きーっと」 目には見えない耳も下げ、しっぽも垂れていた。 あとできちんと謝るべきだろうか。 いやいやなにを弱気になっているんだ自分。 野分が謝ってくるまで許さないと、弘樹は決意を新たにした。 今回は絶対、アイツが悪い! 看護婦ってことは、大方『野分ファン』の誰かがが「お土産」なんて 理由で、野分に渡したんじゃないか? そんなもん食えるか。 野分だけに食べて欲しいと思ってるのに、恋人、しかも男の俺が食べ てはいけないだろう。 その人を、傷つけることになるじゃないか。 ・・・考え過ぎ・・・なのかもしれないけどさ。 でもじゃなんでわざわざご大層に可愛らしく、土産をラッピングしてあるんだ? おかしいだろっ普通は手渡しとかだろ? これは野分への好意の表れではないのか? となると、やはり自分は食べてはいけない・・・というか、 野分、お前は勧めちゃいけないだろう!!! いや俺もつい腹立てて食っちまったけどさ!気付けよそこは!気遣えよそこは!! ・・・・・とか思う、 大人げない自分がいるわけで・・・・・・。 「ヒロさーん。 今日久々に鳥の唐揚げにしようと思ってるんですが」 「ふーん。いいんじゃねーの?」 ひとくちの饅頭ごときで、こんなに嫉妬してしまう自分。 こんなことは初めてで、どうして良いのか分からない。 「ヒロさん、ごめんなさい。 俺・・・他に何か悪いことしましたか?」 参ったな・・・。 そんなこと言われたら、 そんな顔されたら、 ほだされてしまう。 大切なひとだから・・・野分だから、許してしまいそうになる。 「お願いです、話して」 心ではもう許しているのに。 強情な口はかたく閉じられたドアのよう。 「好きなんです・・・っ」 それは魔法の言葉。 すべてを越えて、弘樹の心だけを捕まえる魔法の言葉。 溜息はひとつ。 許してやるか・・・なんて。俺も軽く考えられるようになったものだ。 魔法の言葉は、鍵の掛けられたドアが開く魔法の鍵になる。 「・・・かき揚げ」 「え?」 「かき揚げも作ったら・・・許してやらんことも・・・ない」 「ヒロさん・・・!」 触れてこようとする指を右手で軽くあしらう。 調子に乗せてはいけない。かき揚げを食べるまでは許さない。ここが重要だ。 「風呂掃除終わったんで、すぐ作ります!!」と足早にキッチンに 向かうしっぽはすっかり元気を取り戻し、勢いよく振りまくりだった。 これでやっと本に集中出来る。 キッチンから野菜を切る音が聞こえる。 そんな音に耳を傾けながら本を読むこの瞬間は、弘樹にとって至福の瞬間だった。 時間だけが静かに過ぎていった。 何かが揚がる音が聞こえ始める。 カラカラカラ・・・。 油の弾ける音、黄色い気泡が壊れる音と共にふんわりと良い匂いが漂う。 「ヒロさーん、味見して下さい」 菜箸の先に摘まれている鳥の唐揚げに、弘樹は思わず口を開いた。 「待って下さいね、ちょっと熱いかも」 猫舌の弘樹にはこの唐揚げは熱過ぎるかもしれないと、野分は息を吹きかける。 「はい、あーん」 「・・・・・・・・・・・・・・・・」 本人は無意識だろうが、あまりのベタな展開に軽い眩暈を起こす。 なんでコイツは、こうもウルトラ級に素で恥ずかしい奴なんだろう・・・。 きょとんとする顔が、また可愛い・・・なんて思う自分はヤキが回っている。 「早くっ早く食べてみて・・・!美味しいって言って欲しいな」。本人は無言でも、 純粋な瞳はそう告げていた。 ぱくりと食いつき、咀嚼する。 「どうですか?」 「・・・美味いに、決まってんじゃん」 「あー・・・良かった。そう言って貰えて嬉しいです」 調理の途中だった野分は「もう少しでできますからね」とキッチンに戻る。 飲み込むのが勿体無く、弘樹は未だ咀嚼していた。 ひとくちの嫉妬が招いた、ひとくちの幸せ。 そんな日があっても良いんじゃないだろうか。 毎日晴天では、太陽は見えるが花は枯れる。 毎日雨では、花は喜ぶが太陽は隠れる。 どちらも大切。 だから代わりばんこでやってくる。 雨が連れてきた、虹みたいな小さな一口サイズの幸せ。 野分、 夕飯を食べたら素直に話すから・・・。 夕飯を作る野分の顔は幸せそのもので。 その顔を見てしまったら、 もう・・・なにもかも話そうと思ってしまうのだった。 |