窓を叩く雨音。 激しい風に、部屋ごと揺れている錯覚に襲われる。 薄目を開け、ガタガタと、カーテンが不安げに揺れているのが見えた。 睡眠の底に沈んでいた意識が、徐々に意識の岸へ浮上していく。 覚醒しきらぬ頭では、一体何が起きているのかすぐには把握出来ず、 上半身を起こしてみたものの、弘樹はぼぉ・・・と布団の皺を見つめていた。 はっきりしない意識の中、 ふと込みあがった淋しさに、 隣に眠る人の存在を弘樹は急に確認したくなる。 「野分・・・?」 しかし、眠りにつくまで隣にいたはずの恋人は、どこにもいなかった。 シーツに残ったぬくもりだけが、先程までいた恋人の存在を証明する。 では一体恋人はどこへ行ってしまったのだろうか。 壁に掛けられた時計は午前五時を示している。 寝起きの頭は混乱するばかりだ。 弘樹は悲鳴に近い声で、恋人を呼んだ。 「野分!!!」 恋人を求め、過敏になっていた神経が、心を荒立てる。 寝惚けているのか、それとも暗い雨の音が怖いのか、 言いようのない不安は募るばかり。まるで子供のようだ。 声を聞きつけたのか、慌しい足音共に寝室のドアがバタン!と開く。 「ヒロさん!何かあったんですかッ大丈夫ですか?!」 「あ・・・いや・・・・」 野分の慌てた表情に、弘樹はようやく自分が仕出かした事を自覚した。 恋人の登場に安心したのも束の間、大きな声で呼んでしまった ことをひどく後悔した。 自分を抱きしめようと、野分がこちらへ来る。 それを確信した弘樹は、恥ずかしさでいたたまれない気持ちになる。 顔を見られぬよう、枕に顔を埋めた。 「すみません、起こしちゃいましたよね? 俺、これから出掛けるので、バタバタしてて・・・」 「違う!お前は悪く・・・ない」 するりと回ってきた腕に縋りたい気持ちを抑え、抱き締めてくる ぬくもりにうっとりした。 普段なら、眠りの深い弘樹は野分が出て行っても寝続けることが多い。 しかし、普段とは異なる荒々しい嵐の朝の訪れに、理性の目覚めぬ頭で 無意識のうちに恋人を求めていたらしい。 「俺こそ・・・悪かった・・・な。でかい声出して」 背中に感じる体温の重さが心地良く、腰に巻かれた腕にそっと 自らの腕を重ねる。 「そんなことより、こんな朝早く・・・どこ行くんだ?」 「はい、呼び出しで。患者さんが運び込まれたらしいので」 「・・・・へぇ、そう。 ・・・・って、ちょっと待て。こんな嵐の中?!」 研修医の野分は、緊急の呼び出しなどざらで。早朝だろうと 真夜中だろうと関係ない。 それは分かっているが、まさかこんな暴風雨の中を走って行 くのかと、困惑した。 頭で分かっていても、危ぶないのではないのかと、心がつい ていかない。 「そこは・・・まぁ・・・大丈夫です」 「何がだッ根拠がねェ!!」 興奮した弘樹は枕から離れ、上半身を起こし、野分に向かい合う。 野分にもしものことがあったら・・・などと、考えたくもない。 想像するだけ徒労だし、心配するだけ無駄だ。 けれど決して、ありえないことじゃない。 病院に向かっている途中で、事故に遭いでもしたら、それこそ笑い 事ではすまされない。 「ヒロさん・・・・。 無理かもしれませんが、本当に俺大丈夫ですから。 お願いです、心配しないで下さい」 心配するなだと!? こんなめちゃくちゃな天気な中、恋人が飛び込んで行こうとして いるのに、心配しない恋人がどこにいるってんだ馬鹿!! 「そんな顔・・・しないで」 野分の熱い手が弘樹の頬を包む。 流されてはいけないと思いつつ、愛しい人の手は温かい。 弘樹の頭は心配のあまり、先程から嫌な想像でいっぱいだった。 ずぶ濡れになって風邪でもひいたら? 暴風で物が飛んできて、事故にでも遭ったら? 「俺・・・自分に何かあるより、 ヒロさんにそんな顔される方がずっと・・・辛いです・・・っ」 不安に追い詰められ落ち込む心を冷たくなった頬ごと、野分の熱が溶かしていく。 両の頬ごと持ち上げられ、至近距離で重なる野分の澄んだ漆黒の瞳に弘樹が映る。 眉を寄せ、怒っているというより、怯えたような表情に己が一番驚く。 自分は、こんな顔をしていたのか。 情けない、これじゃ野分に心配されるのも当たり前だ。 「大丈夫です、俺は絶対ヒロさんをおいて、死んだりしません」 「あっ当たり前だ・・・!」 「死」と言う言葉を、愛しい声で言われただけで、心が氷のように 冷たくなったと言うのに。 そんな事、起きてはいけない、絶対に。 「必ず帰ってきますから。 必ず、ヒロさんの処に・・・」 「だから・・・」と呟く野分の顔もせつなげで。 弘樹は自ら目を瞑ると、野分を待った。 やがて訪れた至福の瞬間、触れるだけの優しいキス。触れ合った ところから愛しさが広がっていくのを感じながら、収まったはずの 淋しさが溢れていく。 このキスが終われば、野分は行ってしまう。 離れていく唇が切なくて、追いかけるように首に腕を絡ませ、 弘樹はキスを深めた。 野分の唇を割り、舌を絡ませ愛撫する。 「ん・・・ふぁっ」 恥ずかしさで顔が真っ赤になるのが分かったが、弘樹はキスを止 めようとはしなかった。 優しいキスをくれた恋人の唇とは思えぬほど、次に訪れたキスは 深く熱情に溢れていた。 舌が絡まり、飲み下せなかった蜜が唇の間から零れても、二人の キスは続いた。 それどころか、弘樹はもっとと強請るように野分を乱した。 キスの合間、吐息に交えて野分に甘えるように言った。 「も・・・いっかい・・・っ」 ぎゅっと、野分のシャツを強く握る。 皺が刻まれるように、強く、強く、まるで自分の痕を残すように。 熱いコーヒーを啜りながら、弘樹は研究所の窓から外を眺めていた。 昨夜から早朝にかけて上陸していた台風は、午後には過ぎ去っていた。 だが木々は倒れ、道路には葉っぱやゴミが散乱するなど、嵐の傷跡を しっかりと残して。 幸い、大学には特に被害はなく、目立った混乱もない。授業も定時に 開講された。おかげで、弘樹の受け持つ午後からの講義も、何の問題も なく行われたわけだが・・・・・。 「・・・・・かーみじょぉー」 「・・・・話かけないで下さい・・・・ッ」 苛立つ助教授を、教授が宥める。 が、宮城の気配りも無駄だったらしく、弘樹は手に持っていた生徒名 簿を思いっきり握り潰した。 眉と眉の間には多数の皺、歯を食いしばり、本人なりに己の苛立ちを 収めようと努めているらしかった。ここで宮城に八つ当たりなどしては、 大人げないこと極まりないからだ。 しかし、不機嫌を絵に描いたような表情はどうしても顔に張り付いて、 離れやしない。 そんな弘樹に、宮城は思わず苦笑する。 「まーまー。そう怒んなって。 頑張って来てくれた生徒も、いたんだろ?」 「分かりますよ?バスや電車が遅れたりで、トラブルに巻き込まれてって 奴もいるってこと。 地域的に警報が出て危ないから、不本意ながらも休むって奴がいることも。 んがッ!! 他の奴も休むだろうと見越して休む奴とか! 大学の側で一人暮らしてるくせに、『便乗』して休む奴とか! それをさも当たり前のように考える腐った根性とか!! あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛・・・・!!!」 苛々を言葉にするだけで、改めて実感する。腹が立ち、怒りの炎が 一層強く燃え上がった。 真面目な弘樹には、想像も出来ない不真面目な生徒が最近は多い。 ケータイをマナーモードにしないなどまだマシな方。 講義中勝手に席を立つわ、大声でお喋りするわ化粧はするわ・・・。 そんな奴に講義を取られなくて結構、むしろ取るな、金輪際二度 と顔を見せるな!!!と拳骨を食らわしてやりたいぐらいだ。 今日の講義だってそうだった。 暴風雨に見舞われた一限の講義ならまだしも、弘樹の講義は雨も風 も落ち着き、水分を含んだ空気と熱い日差しの漂う、台風の痕が強い だけの午後では、何の障害もない。 自分の恋人など、一番雨風が盛んだった明け方近くに病院へ向かった いったというのに・・・。 病院に着いたら即電話を入れるよう念押しした甲斐もあり、電話が 入った時の温かい安堵とそれまで足元が地に着かない不安感は、今でも 忘れられない。 まるで自分は暗い海の中に漂う魚で、前も後ろも分からない。そし て水面に映った太陽の光を見つけ、呼吸の仕方を思い出したような。 そんな気分だった。 「まぁ良いですッ 今日休んだ奴はと特別課題として、 レポート二千文字! パソ打ち不可! ボールペンの使用のみ許可、修正不可の手書きで提出させてやります!!」 「うわぁー・・・鬼ー」 「なんとでも言って下さいッ」 げっそりとする学生の事を思うと、宮城は同情をかけずにいられなかった。 宮城が何を言っても、気が変わることないだろう。 さてさてと時計で時刻を確認すると、弘樹は次の講義で扱うテキストをチェック する。その時、ポケットが振動した。正確には、ポケットに入れたケータイの バイブだった。 ディスプレイには、『メール受信』の文字。 野分からだった。 「上条、顔、ニヤけてるぞ」 「!?」 思わぬ指摘に、急いで口元を隠す。 隠していたつもりだったが、自然に恋人からの連絡に口元が緩んで しまったらしい。 「うっそ」 宮城がいきなり噴出し、腹を抱えて笑い始めた。 「やっぱ『野分』君か〜。 やれやれ、これだから新婚はぁぁ〜」 呆然とする弘樹だったが、しばらくして「は!!」と気付く。 自分はニヤけてなどおらず、ただ単に宮城にからかわれたのだ。 「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!!」 弘樹の顔はみるみる真っ赤になっていった。 いつか絶対、セクハラで訴えてやる!!!! 「講義あるんで失礼します!!!!」 「あーはいはーい。『野分』君に宜しくぅ」 「本当からかい甲斐のある奴」と宮城が付け加えられると、 弘樹は余計腹を立て、宮城を睨んだ。 一刻も早く宮城の側から離れたい弘樹は、講義用のプリントとノートを片手に、 研究室を出た。 「ラブラブは結構。 大学でメールは程々にしとけよー。鬼の上条が笑われるぞ」 「仕事中にそんなことしませんよ!!!!!」 本当に余計な言葉が二言も三言多い人間だ!。 これ以上からかわれるのが嫌で、取り出しかけたケータイをポケットに戻し、 早足で廊下を過ぎる。腹いせにドアを思いっきり蹴ってやった。 次の教室は確か二階だったなと確認する。 台風が去り、ようやく賑やかに鳴り始めた廊下を歩きながら、 通り過ぎていく。 ふと、眩しさに目を引かれてみると、窓ガラスに反射し、久々に顔を 出した太陽の光が弘樹の顔に差し込んだ。 窓の外、 あんなに空を淀ませていた空気も、灰色の雲も、今は空の彼方。 青い、ただただ青い空に弘樹は己が吸い込まれていく感覚に囚われた。 息をするだけで壊れてしまいそうな美しい空が、窓に縁取られ、 まるで一枚の絵のようにそこに存在していた。 大きくて、どこまでも澄んだ空。 野分に出逢ってから、 それはもう台風に巻き込まれたような気分だった。 半ば強制に家庭教師を頼まれ、秋彦に片想いしていたはずなのに、 いつの間にか熱い腕に心を攫われて。気が付けば、堕ちていた。 野分は、台風の意。 乱されて、大粒の雨を流して、台風のように抱き合った。 だが最後には必ず、 こんな空みたいにどこまでも澄んだ想いを囁いてくれる。 「眩し・・・・っ」 今日の講義はこれで終わり。 残った仕事は急ぎでもないので、明日に回せば良い。 先程のメールで、野分が既に家に帰って自分を待っていることも分かった ことだし。 今日ぐらい、早く帰ってもバチは当たらないだろう。 一分一秒でも、早く帰りたい。 その分だけ早く、自分を迎えてくれる笑顔が見れるから。 野分が作ってくれた飯を食って、今日は俺から・・・手を繋いでみよう。 窓に映った顔は、幸せそうな微笑みを浮かべていた。 しかしそんなことに本人が気付くはずもなく、弘樹は教室へ向かうのだった。 滅多に鳴らない電話が鳴った。 キッチンにいた野分は慌ててエプロンで手を拭く。 乾いた手で、ようやく受話器を取った。 |