電車が揺れる。 一時間も電車に乗っていないのに、野分といると色々なことがある。 疲れることもあるし、怒ったり殴ったりすることもある。しかし同時に、飽 きることもないのだ。 ほんのひと時の中でも、野分な様々なものを与えてくれる。 【野分】と、一緒だから・・・・。 「ヒロさん、あっちついたら何か食べましょう、俺奢ります」 奪っていく。 くだらないプライドとか、 役に立たない意地とか、 長年俺が重荷に感じていたものを・・・・・こいつは・・・・・。 「ピザ・・・・マルゲリータと生ハムの」 「はい」 「グリーンサラダも・・・食う」 「いっぱい食べて下さい。 この前触ったら、また腰周りが痩せてま」 ゴツン!!! 「・・・・・・・・・・・」 「・・・・・・・・・・・すみません。」 「野分・・・・・・・・」 「はい?」 「いや」 誰より傍にいたい人。 「・・・・・呼んだ・・・だけだ」 「・・・・・はいっ」 誰より支えたい人。 「・・・ヒロさん」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・なんだよ」 「ヒロさんは、可愛いです」 誰より俺の心の武装を外すのがうまい、 憎らしい、人。 「馬鹿野郎・・・・・」 心臓が今日も、五月蠅くて、耳障りだった。 事の発端は、そんな会話の約一時間前。 せっかくの休みと言うことで、野分と出掛けることにした。 特にどこへ行くとも決めず、とりあえず財布とケータイを持って家を出た。 久々に聞く愛しい人の声は、会話をより盛り上げた。 気付けば最寄りの駅まで 来ていて。「どこに行きたい?」と尋ねても、 「ヒロさんが行きたい所で良いです」とふざけるので、頭を軽く叩いてやった。 「本心なのに・・・・・」 馬鹿野郎、余計質が悪いわボケ! 弘樹は恥ずかしさを隠すように、「えーとえーと」と行き先を考え、券売機の 上に貼られた路線図を見た。 そう言えば、あの駅に大型の本屋ができたとテレビで言っていたな。よし、そこ にしよう。 二人分の切符を買い野分に渡す。 電車賃ぐらい払うと言われたが、電車賃ぐらい奢らせろと無理矢理納得させた。 電車が来るまで、道で話した内容とは異なるが、やはり他愛のない話をした。 野分にとって、入院している子供達の笑顔を見るのが楽しみのひとつだとか、 今日の夕飯は何が良いかとか、最近の若者は大学を遊び場感覚で通っている!忌 々しき状況かつ腹立たしい!と弘樹が腹を立てたり。 そんな日常会話。 だが、弘樹は、野分と過ごすこんなひとときも好きだった。 ためになる話でなくて良い、自分の好きな分野の話でもなくて良い。ただ野分 が語る一言一言が、愛おしいのだ。 電車が到着し、二人は中へ入る。 思っていたより電車は混んでおり、なんとか二人分の席を確保しようと野分は 早足になった。 そして見つけた隣同士の二人分の空席。誰かが座るより早く、野分は座る。 「ヒロさ」 座った席の隣を指さした野分だったが、弘樹の前を歩いていた青年がどかりと そこへ座ってしまう。 イヤホンから音漏れがしていても気にするような繊細な神経を、彼は持ち合わ せていないらしい。 すぐに電車が動きだした。 弘樹は特に気にする様子もなく、野分の前へ立った。野分が弘樹を座らせよう と席を立つと、弘樹の眉間に多数の皺が発生した。 「いいっ」 「でも・・・・・・」 「俺を年寄り扱いするなッ」 野分は叱られた犬のように萎縮した。 しゅんとうなだれる横顔。この顔に弘樹は弱い。 「・・・・・そんな顔すんなっ」 俺が苛めたみてぇじゃないか・・・っ 「でもヒロさん・・・・」 「あーもう分かったから!!」 底の見えない漆黒の瞳の視線に耐えられず、弘樹は視線をそらす。 野分に見えぬよう、吊り革に捕まった両腕の中に顔を隠した。 「あ・・・あとでで良いから、席代われッ」 「はい・・・!」 席を代われと言っただけで、野分は満足そうににこにこと笑った。 なんだか、納得いかない・・・。 だがこれ以上この話を続けたくないので、弘樹はあえて言及しなかった。 吊革に掴まりながら、弘樹は野分を見下ろす。普段見下ろされてばかりの弘 樹には新鮮な角度だ。 こちらに気付くと、下の方を見ていた視線が顎ごとこちらへ向く。 見上げてくる黒い瞳は、いつも通りきらきらと光っていた。 こうして見ると、やはり彼は大型犬によく似ている。 「・・・・・・・野分」 「はい?」 名前を呼んだだけなのに、ひたすらに優しい笑顔。 野分の背後に、ちぎれんばかりの犬のしっぽが見えるのは幻覚だろうか。 それからまた他愛ない話をしていると、いつの間にか乗客が増えてきた。 次の駅に着いたのだろうか。電車の入り口から左右に別れ人々が乗ってくる。 そんな人々の中に、杖をついた老婆がいた。 駅を発車した衝撃に、老婆は杖ごと揺れる。 右へ曲がれば衰えた体は、素直に右へ揺れる。左に曲がっても全く同じ反応だ。 誰もがみな危ないと思うのに、行動する者は誰一人居ない。いつひっくり返って もおかしくない。 みかねた弘樹が、「大丈夫ですか」と声をかけるより早く、 「どうぞ」 と、野分がすすんで席を譲る。 老婆は、深々と頭を下げたが、そのまま倒れてしまいそうな体が心 配で、野分はそれどころではなかった。 老婆は席に着き、野分は弘樹の隣の吊革に掴まった。 「すみませんねぇ」 「いいえ、お構いなく」 野分の親切に、老婆は本当に助かったと言わんばかりだった。 野分はこう言う一般的親切を、すすんで実行することが出来る。 弘樹は良い人に思われることが苦手なので、知り合いが側にいると、なかなか 行動に移せなかったりする。 だから、野分のこういう性格を時に羨ましい、と思うことがあった。 横目で見れる恋人の笑顔は得意げでも、恥ずかしげもない、いつも通りの横顔 だった。 こういう親切をスマートに出来る野分を、弘樹は素直に凄いと思うのだった。 電車に揺られること十分、老婆は再び深々と頭を下げ電車を降りていった。 野分につられ、弘樹も頭を下げた。 老婆に気を取られていると、眼前の空席はいつの間にか他の人が着席した後だった。 やがて大きな駅に到着すると、人の流れが変わり一気に人口密度が濃くなる。 混雑した車内、隣人と密着し合う。人混みは得意じゃない。人とぶつかってい たいわ、息苦しいわ、疲れるわ、良いことなんて何一つない。 休日だからと言って、外出すべきではなかったのかもしれない。 野分がいる所ならどこでも良かったのだから、家でのんびりしてた方が、 何十倍も楽だっ・・・・。 って!! なにこっぱずかしい事考えてんだ俺!!しっかりしろ!!! 自らの思考に思わず赤面する。 「!」 他人の手と手が触れる中、弘樹の冷たくなった手を温かい手が包む。 こんな大胆不敵なことをする奴、世界にただひとりしかいないッ 弘樹は力いっぱい隣人を睨みつける。 すると、黒髪の恋人は弘樹の白い耳元で睦言のように熱っぽく、小さな声で呟く。 「大丈夫です、誰も見てませんから」 「!?」 そういう問題じゃない!! っというか顔ちけぇよ!!!! 誰もが密着した空間で、誰が誰と手が握っていると気付く者などいない。 それでも、握られた本人は口をぱくぱくさせ、心臓は五月蝿いぐ らい高鳴っていた。 耳まで赤くなる。 手は心なしか、暖かいと言うより手の主の心を映したように熱かった。 野分は恋人を抱き寄せたい感情を抑えるため、窓の外を見つめた。 弘樹は相変わらず俯いたままだったが、野分に自分の存在を囁くようにぎゅぅと、 その大きな手を握り返すのだった。 やがて急行と待ち合わせの関係で、とある駅に到着するやいなや、どんどんと人々が 降りていく。 急いでいるわけでもないので、二人はこのまま各停に乗ることにした。 席もいくつか空き、二人分の席が空く。 しかし運悪く、隣同士ではなく真ん中に人が座っていた。 人が集まると発生する独特のにおいと、立ち過ぎのせいで弘樹は気分が悪くなっていた。 何も気にせず座ると、野分は席にはつかず、弘樹の前へ立った。 「・・・・・お前も座ればいいじゃん」 「いえ、俺はここで良いです」 立ち疲れたのは自分だけではないはず。隣同士には慣れずとも座れば良いと促 すが、野分はすぐにうんとは頷かない。 すると、弘樹の隣にいた人が「どうぞ」と席をずれてくれたのだ。 「すみません」と二人でお礼を言い、野分は、弘樹の隣の席に座った。 「・・・・・・・。」 「・・・・・・・。」 「な・・・何がそんなに嬉しいんだか・・・っ」 弘樹の隣に座った途端、あんなに素直にうんと言わなかったくせに、今ではに こにこと嬉しそうな笑みを浮かべていた。 若くて綺麗な人の隣ならともかく、三十近い男の隣に座っても何も嬉しいこと はないだろうに。 「嬉しいです」 「だから、なんで?」 「だって、ヒロさんと目線を合わせて喋れるじゃないですか」 「な!!」 まさかコイツ・・・・・っ さっきそれで落ち込んでたのか・・・!? そう思うのは、考え過ぎだろうか。 いや!!!コイツなら・・・アホ野分なら、ありえる・・・・! 野分の思考回路に、弘樹はいつもついていけない。 理解しようと思うのが、そもそもの間違いなのだろう。 弘樹は人酔いの延長か、それとも野分の理解し難い思考酔いか、気分が悪化した。 「ヒロさん?」 「・・・お前・・・・・本当にどうしようもない奴だな」 「はい。 ヒロさん馬鹿には自信あるって、言ったでしょ?」 駄目だこいつ!! 脳内細胞の隅々までいかれてやがる・・・・! 「・・・・・ヒロさん」 「・・・・・なんだよ」 「・・・・・呼んでみただけです」 野分の手を払い、ボカン!!と生意気な脳内細胞の詰まった頭を殴る。 こいつ・・・・マジで生意気だ・・・・ッ 気付けばいつも、野分のペースに乗せられている。 他人の干渉を嫌い、冷静な上条弘樹はどこかへ行ってしまう。 それは決して、 不快なものではなかったが、不安に駆られない日は・・・なかった。 地に足がつかないと言うか、ふわふわと雲の上にいるような気分になる。 太陽の日が暖かくて、雲に頭を撫でられると気持ちが良くて、目を閉じる。 野分の笑顔が、目蓋の裏から透き通って見える。 だから心配なのだ、 この雲が、なくなってしまった時のことを、考えると・・・・。 不安になる、 素直じゃない自分に、いつか愛想をつくすんじゃないかって。 野分の性格を考えると、もっと気持ちをストレートに言葉に表わして 欲しいと感じているに違いないから。 だが俺には、大切だ、好きだなんて口に出す程の勇気はない。 口出したら最後、その想いの丈がはかれてしまいそうで、嫌なのだ。 野分への想いを、さらりと口に出せる程、簡単でも単純なものではないから。 でも・・・それじゃ・・・・いけないんだ思う。 だからと言って、すぐ変わることが出来るほど、俺は正直ではないが・・・。 「野分・・・・」 「はい・・・?」 人目につかぬよう、二人の間に、弘樹は手を表に向け野分の手を待つ。 弘樹の行動が理解出来ないのか、野分はきょとんと弘樹の白くて綺麗 な手を見つめていた。 「ん! ・・・・・ほら・・・っ手・・・・っ」 そこまで言うのが精一杯。 あとは己が口にした言葉に、ただただ赤面する。 野分はようやく弘樹の意図を理解した。 「・・・・・はい。」 恋人の顔など見ることが出来ず、弘樹は顔を背けて待つ。 やがて待ち望んだ熱いくらいの手が、ゆっくりと、弘樹の手に重なった。 ぎゅっと握り返すと、覆い被さっていた手が強い力で握り返してきた。 「少し・・・・・・寝る」 眠れるはずないのに、胸が苦しくて言い訳のようにそう言う。 野分は「おやすみなさい」と笑った。 電車のアナウンスで、次の駅名が告げられる。 目的の駅まで、あと二駅・・・・。 行き先を変更して、もう少し遠くの駅に行っても良いと思ってしまった 自分は、野分以上に馬鹿だと思った。 ようは、野分がいればどこでも良いのだ。 どこだって良い、 お前がいればこうやって手を繋ぐことが出来るのだから。 |