「最・・・悪・・・っ」



 忍は先程まで晴れていた空を睨んでいた。



 そこにはもう青い空はなく、
  泥水のような雲と、
 降り注ぐ豪雨に、自分の血管が浮き上がるのを感じた。

 スーパーの入り口についているブラインドの中、コンクリートの
道に跳ね返る雨までは防げず、パンプスに染みていく。

 部屋を出る時、
 タオルで頭を拭きながら「傘持ってけよ」と宮城に言われたのに、
 と忍は後悔した。

 隣とはいえ、自宅に戻るのが面倒臭く、そのまま玄関を出て行こう
とすると、宮城にわざわざ折り畳み傘を差し出された。
 損はないだろと言われたが、何の根拠もなく、「いらない」っと、
申し出を断ってまでスーパーにきたというのに・・・。


 普通・・・
 あんな快晴から、いきなり雨になるかな・・・っ


 まったく勘弁して欲しい。
 忍は頭を抱えた。
 キャベツが入って伸びたビニール袋が、左右に揺れる。

  
 こんなことなら、
 素直に、
 あの傘、受け取ってれば良かった・・・。


 見上げる空は、やはり厚い雲に覆われており、ブラインドから
少し出ただけで、顔がびしょびしょになってしまった。

 袖で濡れたところを拭いていると、スーパーから誰か出てくる。
 ケータイ電話で通話しているのか、会話らしき声が聞こえた。
 出てきたのは黒髪の小柄な女の子。


「だからねウサギさん・・・っ
 もう私、傘も買っちゃったしさ・・・うん?
 いや、だから何故そーなる?!
 いいって!いいから!ね?いいってば!!・・・は?今駐車場??」


 相手と揉めているのか、その女の子は握っていたケータイを
通話相手に見立て、大声で叱りつけた。


「人の話を聞きやがれこの偽耳ウサギ!!!」


 え・・・ウサ・・・ギ・・・?
 ウサギってあの?白い毛で二つ耳の、あの兎・・・?


 家族か恋人の名前がでてくるかと思いきや、彼女が叫んだのは明らかに
人外の名前だった。
 一体どういった理由で、彼女は兎と会話が成立しているのか・・・。
 もしかしたら、頭のネジがゆるい人物なのかと見ていると、我に返った
ように少女がこちらの視線に気付く。
 ケータイの電気を切り、すぐさま頭を垂れた。


「あ・・・ごめんなさい!
 大きな声出して、ご・・・ご迷惑を・・・っ」
「・・・平気、大丈夫」

 
 どうやら常識はあるらしく、自分の行動に謝罪をする彼女の横顔は
普通の女の子だった。
 彼女も雨に困っているのか、傘を差して去ることはなく、自分と同
様にブラインドの下で何かを待っているようだった。

 年の頃は中学生か高校生。
 癖のある黒髪や、大きな緑色の瞳。重そうなスーパーの袋を持つ一方、
幼い横顔のアンバランスが、彼女の健気さを表現しているようで。
 ちょこんと立っているだけで、愛くるしい印象を覚えた。


「あ、あの・・・っ」


 恐る恐るといった感じの声に、忍が答える。


「なに?」
「雨宿り、してます・・・?」
「・・・私が雨に濡れる人達を嗜んでいるように見える?」
「え?!いや、そうじゃなく・・・です!」
「ぷっ」


 冗談で言ったつもりだったが、
 言葉を訂正してまできちんと反応してくれる少女が面白い。


「嘘だから。じょーだん」
「良かった。
 ・・・嫌味とかじゃ、ないですからね?」
「分かってる」


 純粋な笑顔に、忍もつられて穏やかな気持ちなった。
 まるで、咲いたばかりの花のような瑞々しい笑顔だった。


「良かったら・・・コレ、使ってください」


 そう言って少女が差し出したのは一本の傘。


「スーパーで傘買ったから、来なくて良いって言ったのに、ウサギさ・・・
 どっ同居人が!迎えにくるってきかなくて」
「あ、さっきの」


 同居人がウサギとは、彼女は『不思議の国アリス』なのだろうか。
 ・・・いや、それはないか。


「『ウサギ』って・・・あだ名?」
「あ、はいっ
 宇佐見って名前で、その人、お兄ちゃんの親友だったんです。
 お兄ちゃんがそう呼んでたから、
 私もいつの間にか、ウサギさんって呼んじゃってて、それで」
「ふーん、・・・彼氏なの?」
「か!!!!?」


 前髪を束ねてぴょんと出ていたアンテナが、忍の言葉でぴん!としなる。
 見る見るうちに、彼女の頬が染まっていく。
 目は潤み、あわあわあわ・・・っと口篭ってしまった。
 どうやら、体全体でその話題には触れてはいけなかったことを教えられた。


「訊いてごめん、もう・・・良いから」
「・・・いや、違う・・・うん、彼氏・・・か・・・いやっあははは!」


 ぶつぶつと何かを言う顔は、明らかに元気を失っていた。
 忍は自分がプライベートなことを訊き過ぎたのだと、反省した。
 しかし、電話のやりとりといい、彼の話しをする時といい、それは恋を
している人の顔だったと言うのに・・・。
 何故、彼女はそれに気付かないのだろう・・・。
 認めたくない、理由でもあるのだろうか・・・。


「そ、そんなことより!傘!!」


 気をとり直して!とでも言いたげに、明らかに話しを変えられる。


「いい。すぐ止むと思うし」
「誰かに連絡して、迎えに来てもらえないんですか?」
「私一人暮らしだし、そういう人、いないから」
「じゃぁやっぱり、傘」
「いいって。今日暇だから、止むまで待つし。ってか敬語、いらない」


 彼女の声に、敬語は似合わない気がしたから。
 それに、彼女とは年が近いそうで、話しが合いそうだった。
 何より、対等の立場で、話しがしたくなった。


「そうなんで・・・そうなんだ!」



 間違いかけて、慌てて訂正するところが素直過ぎて。
 忍はまた少し噴出してしまった。
 「笑わないでよ」と言う少女の頬がまた赤くなる。


「ごめん、ありがとう。でも本当に大丈夫だから」
「分かった。
 でもさ、あのさ、一人暮らしにしてははいっぱい買ったよね」


 彼女が指差したのはスーパーのロゴが入った袋。
 食材がいっぱい入ったビニール袋はぱんぱんで。
 それを両手にひとつづつ持って仁王立ちする忍の姿は、少女の目には頼もしく映っていた


「買い溜め?」
「・・・まぁ」


 そっか、これって『多い』方なんだ。


 宮城と再会するまで、料理の経験など皆無だった忍は、一回に消費する食材の量が分かって
いなかったのだ。
 見たところ、彼女が持っている袋はひとつ。
 小さい手で持っているせいで、重い印象を受けたが、案外袋の中身はすっきりとしていて、
あまり入っていなかった。
 

「そっちは少ないね」
「そう?家にもあるし、これだけあれば三日間は安泰かな」
「マジ!?」


 自分など、重いキャベツを四つ買った日など、三日ともたなかったというのに・・・。
 この少女は一体何者なのだろう。
 凝視すればするほど、これといって変わったところのない、普通の女の子だった。


「ね、君何歳?」
「19」
「え!年下?!」


 小首をかしげて訊いてきた少女の首が勢いよく元に戻る。
 その顔は驚きに満ちていた。
 そして突然、「ふ・・・不公平だ!!」と言い出した。


「私よりッ
 足が長くて美人で肌が綺麗で、大人っぽいのに・・・!
 私より年下だなんて・・・ッ」
「いや、理由おかしくない?」


 驚きを隠せないのは忍も同じだった。


「へぇ・・・年上だったんだ・・・」


 想定していた年齢の上限は自分と同い年だと思っていたのに・・・まさか年上だったなんて。


「なんだって・・・私の周りにはこう・・・とんでも人間ばかり集まるの・・・?
 ウサギさんといい、ウサギ兄といい・・・ッ
 ウサモンじゃなくて・・・とんでもない人間でトンデモモン・・・?いやいやいや!」
「何ぶつぶつ言ってるの?」

 
 『ウサモン』?と訊ねるような空気ではないので、忍は質問を飲み込む。


「なんだよもう。
 そうと分かったら、絶対敬語なんか使わないしっ
 じゃぁ大学生か専門生?」
「大学。そっちは?」
「私も」


 徐々に元気を取り戻していく花が可愛くて、こちらもついついつられてしまう。


「良かったら、メアド交換とかしない?
 あっそれより名前だよね、私は高」


「待ってくださいヒロさん!!」


 彼女の声を遮ったのは、スーパーの中から出てきた二人の男女だった。
 大きな声をあげた恋人に、苛立ったように女の方が眉間に皺を寄せる。
 一方の男はごめんなさいと言いつつ、「でも大変なんですっ」と付け足す。


「卵を、買い忘れたんです!」
「・・・は?」
「卵ですよ、卵。俺、今すぐ買ってきますねっ」
「待て待て待て!」


 すぐさまスーパーに戻ろうとする男の首根っこを掴み、慎重さなど無視し、
無理やり振り向かせる。


「こんだけ材料あるんだから、卵ないぐらいどうってことない」
「だって・・・ヒロさん、おでんの卵が好きだから」
「あー・・・」


 呆れるような男の発した理由に、女は満更でもなさそうに顔を染めた。


「イイ!今日は卵なしでも」
「・・・ごめんなさい、やっぱり駄目ですっ」
「野分!」
「俺が・・・食べたいんです」


 切り替えしてくる男の言葉に、「な!?」と、女は自分の敗北を感じる。


「それなら・・・良いですよねっ」


 満面の笑みに、うっと喉が鳴る。
 コイツ、本当に最近生意気だ・・・!


「・・・・・・っ
 か・・・勝手にしろ!」
「はい!」


 男は踵を返すと、風の如く颯爽とスーパーに戻っていった。
 一人取り残された女は、そこで初めて二人分の視線に気付く。


 そして、弘樹は、振り向いたことを後悔した。


「上條・・・センセ?」
「・・・・・・・・・」


 ヤ・・・ヤバい・・・ッ
 なんかすっごく、睨まれてる・・・!!


 教え子でも有り、素直で優しいことを親友から度々聞かされている
高橋は人畜無害だろうが・・・問題はその後ろ。
 教師のプライベートを見てしまい、困惑する高橋の後ろで。
 今にも噛みつかんばかりの剣幕でこちらを睨む、感じ覚えのあるあの子の視線。


 腹痛が痛くなりそうな重い気持ちを、溜息に込めて思いっきり吐き出し、深呼吸。 



「高橋・・・と高槻君・・・っ」
「え、高槻・・・?」
「・・・・・・どーも、センセ」

 
 美少女から発せられる見たことのない負のオーラに、気後れする美咲。
 二人がどういった関係なのかは分からなかったが、きっと、出会ってはいけない
二人だったということは、しっかりと肌身で感じていた。
 先程までの空気が一変し、綺麗な顔の一部だった眉間に、今は皺が寄っていて。
 一方の先生の顔には、いつもの眉間ではなく、困惑が色濃く表れていて。

 美咲は二人の間に板ばさみになっていた。

 この状況をどうやって打開すべきか。
 とにかく、状況がこれ以上悪化せぬよう、慎重な行動をすべきだろう・・・。
 そう、悪化だけは避けなければならな


「あれ?上條じゃないか」
「うわ!・・・きょ・・・教授・・・っ」
「なんだ、お前も買い物にきてたのか」
「あれ、宮城教授!?」


 そこへ現れたのは、上條助教授の上司である宮城教授だった。


 助かった・・・!
 赤の他人の介入があれば、険悪なムードも少しは払拭されるは


「あ、・・・忍・・・」
「・・・なんでッ
 なんで私より先にその人に気付くのよ・・・ッ」
「え!?君宮城教授とも知り合いなの?!!」


 いよいよ分けが分からず、少女は頭を抱えた。


 頼むから!
 これ以上ややこしいことに、なりませんよーに!!


 なんて・・・
 祈ったのがいけなかったのでしょうか・・・。 


「おい、美咲」
「あッウサギさ」
「げ!!!秋彦・・・ッ」
「え?え?
 ・・・ええええええええええええええええええ!!!」



 兄チャン。
 これが『運命』と言うのものなんでしょーか?


 気付かぬ間にウサギの穴に落ちた、私は『不思議の国のアリス』状態です。


 仕組まれたように、次々に不思議なことが起きて。
 知らない人と、知ってる人とが知り合いで。
 知ってる人と、知らない人とが知り合いで。
 

 正直・・・軽く・・・いや、かなりパンクしそーです。



 私がアリスなら、こう考えます。



 なるよーにしか、ならない。


 ・・・・・・。


 ・・・本当に!?
 本当にマジで、諦めるしかないのかな!?


 
「って!そんな簡単に割り切れるかァァ!」
「諦めろ、美咲。
『長いものには巻かれろ』」
「巻かれすぎて、窒息寸前ですけどテンテー?!」


 結局私は、
 何も知らないふりをした白兎の手招きのまま、
 不思議の世界に迷い込むこととなったのだ。